震災10年 記憶 雄勝病院 患者全40人が犠牲になった病院で何があったのか 宮城・石巻 雄勝町

このコンテンツは関係者の証言などに基づくイメージです。
津波を再現したグラフィックが含まれています。

ローディング中
(0/10)
SCROLL
SCROLL
東日本大震災10年 読売新聞オンライン
画面の上半分をドラッグすると、地図や建物を色々な角度からご覧いただけます。
画面の下半分を上下にスワイプすると、場面を切り替えることができます。
画面をドラッグすると、地図や建物を色々な角度からご覧いただけます。
画面を上下にスクロールすると、場面を切り替えることができます。

リアス式海岸の小さな入り江に立つ宮城県石巻市の市立雄勝病院。3階の病室からは穏やかな雄勝湾を眺めることができた。

本館と新館がL字形につながった病院は、2005年に石巻市と合併した旧雄勝町の住民が利用していた。

あの日、3階には40人の入院患者がいた。

1、2階は外来フロアで、医師や看護師、事務職員ら30人が忙しくしていた。

男性事務職員(55)

病院の事務職員だった男性は、そのとき本階1階の事務室にいた。

女性看護助手(40)

女性は、新館3階で入院患者の介助をしていた。

2011年3月11日14時46分
東日本大震災発生

大津波警報発令

女性看護助手は、揺れが収まると、他の看護師と「すごかったね」などと話しながら、床にこぼれた水を拭いたり、ベッドやテレビを元の位置に戻したりした。

男性事務職員「車を移動させなきゃ」

この2日前にも大きな地震があり、石巻には約50センチの津波が到達したが、海面から高さ5.9メートルの防潮堤があるため津波は来なかったという認識だった。

大津波警報が発令されても、どこか半信半疑だったという。

女性派遣事務(47)

派遣事務の女性がどうしていいか戸惑っていたところ、先輩女性事務員(当時40歳)から「それぞれ逃げてください」と言われた。

近くで工事をしていた人が「山へ逃げろ」と叫んでいた。

上履きのまま病院が見えなくなるまで無我夢中で駆け上がった。

女性は裏山に避難して助かった。

「手伝って」とか「上へ行こう」と言われていたら従っていたと思う。

今も「患者を助けずに逃げてしまった」という負い目を感じているが、「『それぞれ逃げて』という、あの一言が生死を分けた」。

男性事務職員は海抜3メートルの病院よりやや高い場所にある石巻市雄勝総合支所(現在は別の場所に移転)に車を移動させた。

歩いて病院へ戻る途中、側溝から「ゴボゴボ」という音が聞こえた。「地震で水道管が破裂したのかな」。

そう思った数秒後、病院前の防潮堤を津波が乗り越えるのが見えた。

ただ、この時は3階や屋上に津波が及ぶとは思わなかった。

病院2階に人がいないか確認した上で3階へ。既に1階は水没し、2階の浸水が始まっていた。

女性看護助手が気づいた時には防潮堤から海水があふれ、車同士がぶつかりながら流されていくのが窓から見えた。

「屋上に上がれ」。副院長(当時58歳)が叫んだ。

男性職員は薬剤科部長(当時57歳)らと4人で患者をシーツに乗せ、屋上へ避難させようと試みた。火災の避難訓練で、患者をシーツで包んで引きずることはあったが、持ち上げたのは初めて。

4人でやっとというくらい重く、患者は「どこに連れて行かれんだべ」と不安げに聞いてきた。

女性看護助手が屋上に着くと、3階の窓越しにベッドに寝ている患者が見えたが、そのうちに海水がそれを遮った。

男性職員らが何とか屋上に上がった頃には3階も浸水。屋上に達するのは時間の問題だった。

なす術はなく、患者を屋上に下ろしたとき、
薬剤科部長が「ごめんね、ごめんね」とつぶやいた。

屋上に海水が流れ込み、腰の高さになったとき、男性は海中に放り出された。

新館の屋上にも津波が達し、女性看護助手は目の前に流れてきた民家の屋根を目指して泳いだ。

女性看護助手はこのあと自力で岸に泳ぎ着いて助かった。

男性事務職員は流れてきたボートを見つけ、浮いていた畳をビート板のように使って泳いで乗り込んだ。

その直後、引き波と第2波がぶつかり、ジェットコースターのようなスピードで沖に流された。船尾にしがみつき、怖くて眼を閉じた。

1分くらいで引き波がおさまり、目を開けると、周囲で屋根やがれきに掴まっていた職員の姿は見当たらなかった。

雪が降り出し、日も暮れるとぬれた体には寒すぎた。
その後、吹雪になり、船にあったビニール袋を頭からかぶった。

もう一回り大きな無人ボートがぶつかってきた。

船底機関室があったので、そちらにうつった。

せまい機関室で寝ずに朝を待った。

夜が明けると、上空を飛ぶ飛行機やヘリに何度も手を振って助けを求めた。

午前10時過ぎ、海上保安庁のヘリが気づいてくれた。

男性職員は救助された。

50〜100歳代の患者40人のうち、35人は3階で遺体として見つかり、3人は今も行方不明のままだ。

当時病院にいた医師、看護師、職員30人のうち、生き残ったのは6人だけだった。

雄勝病院の跡地には、犠牲者の名前が刻まれた慰霊碑が立っている。

男性職員は今もこう自問する。「雄勝病院のように海が目の前にある病院では、津波から逃げようがない。ストレッチャー付きの車を、用意するというのも現実的ではない。でも、患者を放って逃げる訳にはいかないという思いは今も変わらない」

写真提供
宮城県
元病院関係者
東日本大震災アーカイブ宮城
 
 
地理データ
国土地理院
 
 
取材
松下 聖
紙面版デザイン
沢田 彩月
Web版制作
雨宮 健雄
画面の上へ