1909(明治42年)

水俣が「チッソ城下町」へ

チッソの前身・日本窒素肥料の水俣工場が完成。
カーバイドを利用して窒素肥料を製造し、その後、当時の日本の先端化学工場として拡大していく。
漁業や農業が中心だった水俣が「チッソ城下町」として歩み始める。

チッソ創業当時の工場跡

1956(昭和31年)

水俣病公式確認

水俣湾の小さな入り江近くに住む5歳と2歳の幼い姉妹らが原因不明の病気にかかり、水俣保健所に届け出られた。
これが水俣病の公式確認となった。
その後も次々と患者が確認された。
当初は伝染病と疑われ、患者や家族は差別や偏見に苦しんだ。

水俣市月浦

1958(昭和33年)

排水経路変更

チッソが排水経路を水俣湾につながる百間排水口から、水俣川河口に変更した。
水量の多い河口から広い海に流すことで排水の汚染濃度を下げる狙いがあったとみられている。
しかし、排水は川の水流に押し流され、被害は八代海(不知火海)沿岸一帯に広がった。

百間排水口(1973年)

1959(昭和34年)

有機水銀説と見舞金契約

熊本大学が水俣病の原因として有機水銀説を発表。
チッソはネコ実験により工場排水で水俣病が発症することを確認していたが、その事実は隠された。
この年の暮れ、チッソと患者が見舞金契約を結ぶ。
契約には、「将来チッソの排水が原因とわかっても新たな補償要求をしない」との条項が入っていた。
低額の補償金で患者の声が封じられることに。

ネコ実験に使われた小屋(水俣病センター 相思社所蔵)

1962(昭和37年)

胎児性患者の認定

母親の胎内で有機水銀の被害を受けた胎児性患者の存在が確認された。
胎盤は胎児を守るために毒物を通さないというそれまでの医学の定説が覆された。
環境汚染で未来の命が危機に

胎児性患者(1968年)

1968(昭和43年)

公害認定

「原因はチッソの排水に含まれたメチル水銀」と国が発表。
プラスチックを作るのに利用するアセトアルデヒドの製造の過程で発生した。
公式確認からすでに12年が経過し、新潟では1965年に第二の水俣病が確認されていた。
水俣病と新潟水俣病は68年、ともに公害病と認定された。

公害認定の新聞記事

1973(昭和48年)

チッソの責任認める

水俣病患者がチッソに対し損害賠償を求めた裁判で、原告の主張を裁判所がほぼ認め患者側が勝訴した。
判決では、今後の補償を求めないとした「見舞金契約」について、公序良俗に反するとして無効とした。

第1次訴訟判決の日の集会(熊本地裁前)

1977(昭和52年)

患者認定が狭き門に

裁判で患者が勝訴し、新たな補償協定が結ばれると患者認定の申請が急増した。
認定の審査が遅れ、当時の環境庁が感覚障害を中心に複数の症状がなければ患者と認めないとする通知を出す。
認定申請の棄却が相次ぐ。

1977年の環境庁通知

1980(昭和55年)

国、県の責任を問い提訴

水俣病の発生・拡大について行政の責任を問う裁判が初めて起こされた。
認定申請が棄却されていく中で、水俣病と認められない「未認定患者」が増加し、被害者救済が長期化。
和解による解決をめざす流れに転じる。

第3次訴訟提訴の記事

1988(昭和63年)

チッソ元社長らに刑事罰

四大公害で唯一、原因企業のトップの刑事責任が問われた裁判で、チッソの元社長と元工場長の有罪(業務上過失致死罪)が確定した。

チッソ元幹部への有罪判決を伝える記事

1995(平成7年)

政治決着

水俣病と認められない「未認定」患者の救済で一時金1人260万円などの政府の最終解決策が提示された。
「生きているうちに救済を」と訴えてきた被害者団体はこの案を受け入れ、初めて首相が談話で遺憾の意を表明した。
しかし、行政責任はあいまいなままで、一部の裁判は終結せず。

村山首相と握手する被害者団体代表ら

2004(平成16年)

国・県の責任が確定

政府の解決策に応じず、裁判を続けてきた関西訴訟の最高裁判決で、「被害拡大の防止を怠った」として国と熊本県の責任が確定した。また、国の基準よりも幅広く水俣病の被害を認めた。
しかし、この判決後も行政の判断基準は変わらず、「未認定患者」問題が再燃することに。

最高裁判決を喜ぶ原告団長

2009(平成21年)

水俣病被害者救済法(特措法)成立

水俣病と認められない「未認定」患者の救済を掲げ特別措置法が成立した。認定申請や訴訟の取り下げを条件に、一時金を支給したり医療費を無料化したりすることが主な柱。
一方でチッソの分社化も盛り込まれた。水俣病問題の紛争解決に国が再び動き出した。

特措法成立の記事

2013(平成25年)

最高裁が緩やかな司法基準示す

最高裁が国の認定基準より緩やかな認定判断を示す。
国の認定基準で水俣病と認められなかった場合でも司法で認定する道を開くことになった。
患者認定を巡り、司法と行政の判断が分かれる。

勝訴を喜ぶ原告

2013(平成25年)

水銀に関する外交会議「水俣条約」採択

世界規模で水銀の管理や輸出入の規制などを取り決める条約の外交会議が水俣市と熊本市で開かれた。
条約の名称は水俣病の教訓を生かすため、「水俣条約」として採択。

外交会議の様子

2014(平成26年)

特措法 約3万6000人に一時金など

国の基準で水俣病と認められない熊本、鹿児島両県の被害者計3万6361人が一時金と医療費、または医療費のみの給付対象となった。
国は最終解決策として水俣病被害者救済法(特措法)を適用した。環境省や両県によると、医療費が無料となる新保健手帳から水俣病被害者手帳への切り替えなどを含めると、救済対象は5万3156人に上った。しかし、居住地域や年齢で線引きされ、対象とならない被害者が出た。(新聞記事の見出しは新潟水俣病の被害者を含めた数)

特措法適用の記事

2015(平成27年)

救済から漏れた人の提訴相次ぐ

特措法の救済申請が2012年7月に締め切られ、救済から漏れた人の提訴が相次いだ。
原告は1000人を超えた。
あくまでも水俣病患者としての認定を目指し、認定申請して審査を待つ人も1000人を超えている。
いまなお水俣病をめぐる混迷続く。

ノーモア・ミナマタ訴訟の集会(熊本地裁前)

2016(平成28年)

胎児性患者 還暦を迎える

母親の胎内でメチル水銀の被害を受け、生まれながらに水俣病となった胎児性患者が還暦を迎え、祝う集いが開かれた。
胎児性患者は晴れ着姿で笑顔を見せ、「体験を次世代に伝えていきたい」と語った。

還暦を祝う集い