[The Moments]炭鉱の街 照らしたナイン…1965年 夏の甲子園 三池工V
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1965年夏。初めて甲子園の土を踏んだ三池工(福岡)は強豪校を次々と破り、決勝で銚子商(東関東)を封じて頂点に立った。炭鉱の街・大牟田にある無名校の活躍は、石炭産業の斜陽化が深い影を落とす郷土を大いに沸かせた。
チームの指揮を執ったのは、巨人の原辰徳監督の父、貢(2014年死去)。社会人野球の東洋高圧大牟田の選手から監督に就き、当時はまだ29歳だった。ミスや集中力を欠くプレーには鉄拳を飛ばす厳しい指導で、徹底的に選手を鍛え上げたという。
初陣で強豪・高松商(北四国)を延長サヨナラで下すなど、準決勝までの4戦のうち3戦を逆転で制した。チームの柱は、すべての試合を1人で投げ抜いた2年生左腕・上田卓三(後に南海、阪神)。決勝は銚子商のエース・木樽正明(後にロッテ)と投げ合い、2―0で競り勝った。
選手に胴上げされて宙を舞った貢は「チームの和と根性の勝利だ」と語った。深紅の大優勝旗が九州に渡ったのはこの時、17年ぶり。地元での
50年代から60年代にかけ、エネルギーの主役は石炭から石油に変わった。地元の三井三池炭鉱では労働争議が激しさを増し、三池工が優勝する2年前の63年には大規模な炭じん爆発事故が発生。458人が命を落とし、不況にあえぐ街に追い打ちをかけていた。
地元球児の初出場での甲子園優勝は、沈む街を熱狂させ、人々に勇気と希望を与えた。三池工が甲子園に出場したのはこの夏の一度きり。甲子園勝率は10割のままだ。
(久保山健)