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これは何刀流?「先発全打順弾」「全ポジション出場」達成、五十嵐さんの語る「運と実力の関係」

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 海の向こうの大リーグでは大谷翔平選手(エンゼルス)が投げて打って守って、マルチな活躍をしているが、日本のプロ野球にもかつてギネスブック級の記録を達成した選手がいた。長い球史でただ一人「先発全打順で本塁打」「全ポジションで出場」という攻守二つの「全」を記録した五十嵐章人(あきひと)さん(53)。究極のユーティリティープレーヤー(複数の役割をこなせる選手)の野球人生を今、ひもとく。(編集委員 千葉直樹)

全てのポジションをこなすまで…守備編

 五十嵐さんは前橋商高(群馬)3年時に「エースで3番」で夏の甲子園大会に出場してベスト16入り。社会人の名門・日本石油を経て1990年のドラフト会議でロッテに3位指名を受け、右投げ左打ちの外野手として入団した。

現役時代の五十嵐さん(右)。プロ13年間で「先発全打順で本塁打」「全ポジション出場」の両方を記録した、ただ一人のプロ野球選手だ(2001年8月撮影)
現役時代の五十嵐さん(右)。プロ13年間で「先発全打順で本塁打」「全ポジション出場」の両方を記録した、ただ一人のプロ野球選手だ(2001年8月撮影)

 「高校入学時は内野手でしたが、2年の夏が終わってエース候補が退部してしまい、監督から私が指名されました。秋の大会のコールド負けから奮起して夏の甲子園をつかみました」

 「日本石油では2年目の途中まで、体力づくりのために打撃投手をして、その後に外野手にコンバートされました。当時の社会人野球は指名打者制。投手だった僕は1年半もバッティング練習をしていなかったのに、コンバート後にいきなり3番打者に抜てきされました。でも金属バットで打つのが楽しく、大会でも好結果が出て本人がびっくり。それと、外野を守っていて気が付いたことがありました。『あれっ 俺、肩が強いぞ』って。それまで思ったことはなかったのですが、毎日打撃投手をしていたことで鍛えられたのでしょうか」

 「プロ野球に入れたのも、肩が強いということがあったようです。中学と高校で内野と投手をやり、社会人で外野手にコンバートされたことが、プロで生きていく自分を作ったのだと思います」

 ロッテで7年、その後オリックス、近鉄と移籍して2003年に引退するまでプロ生活13年。オリックス時代の00年に、全ポジションで試合出場という記録が生まれた。

 「プロ1年目は外野手として89試合に出て期待をかけられましたが、2年目の鹿児島キャンプの初日に脚の肉離れをやってしまった。その影響もあってショートにコンバートです。ところが4年目でしたか、二塁手の堀(幸一)選手が開幕直後にぎっくり腰になり、コーチが『明日からセカンドやってくれ』と。『僕、練習したことありませんよ』『練習しながらでいいから』――。無茶をするよなって思いました。ぶっつけ本番ですから、その試合の内容はもう、まったく覚えていないです。内野で一番やりたかったのは、要のポジションで強肩も生かせるショートでした」

 ロッテ時代は主に二遊間、オリックスではサードやファーストのイメージが強い五十嵐さん。外野から内野へ、その内野での出場試合数は一塁手が最も多く、三塁手、二塁手、遊撃手の順だった。全ポジションを経験するうえで、ハードルが高いのがバッテリーだ。捕手としての初出場は1995年5月7日のオリックス戦(千葉マリン=当時)。当時40人の一軍枠にロッテは捕手の登録が3人だけで、猪久保吾一選手が風疹で離脱したためにベンチの捕手は2人だけ。スタメンの山中潔選手が退き、交代した定詰雅彦選手が八回に退場処分になってしまった。

試合で勝ち越し打を打った五十嵐さん(左)が、イチロー選手と勝利のハイタッチ(2000年6月撮影)
試合で勝ち越し打を打った五十嵐さん(左)が、イチロー選手と勝利のハイタッチ(2000年6月撮影)

 「セカンドを守っていましたが、ベンチに呼ばれて、『キャッチャーだ。けがさえしなければいいから』と言われました。捕手は中学1年(軟式)以来ですよ。でもワクワク感の方が強かった。自分が希望したってできないポジションですから」

 「マウンド上は中日で最多勝も取った小野(和幸)さん。サインを出すのが難しかった。ピッチャーに首を振られた時、自分が今さっき出したサインを忘れていたりして。キャッチングは、内野でゴロを取るより簡単だろう、くらいの気持ちでした。何の球種が来るか分かっているわけだから。その試合、イチローにホームランとか、けっこう打たれましたね」

 98年にオリックスへ移籍。残るポジションは投手だけだった。本人は気にしていなかったが、新聞記者から仰木彬監督にその情報は伝わっていた。プロ最初で最後となる登板は2000年6月3日の近鉄戦(大阪ドーム=当時)。投手陣が6連続四死球を出す大乱調で大量13点をリードされた八回裏、無死三塁で4番手としてマウンドに立った。

 「移籍して間もなく、仰木さんに『お前、あと投手だけらしいな。いつか投げさせるから』と言われていたんです。あの試合は、早い回からリードされ、監督が怒って『五十嵐、ブルペンに行け』と。それでブルペンとベンチをウロウロしていました」

 打者4人を犠飛、ヒット、送りバント、右飛で乗り切った。この回、オリックスは6失点したが、五十嵐さんの自責点は0である。究極の敗戦処理として、指揮官の粋なはからいに十分応える投球だった。 

 「うれしかったですね。大阪ドームのマウンドは高く感じた。打者に当てないことだけを意識したけど、コントロールには自信があった。投げたのは真っすぐとスライダーだけ。三振を取りに行った球をヒットにされてしまったけれども、僕の生涯防御率は0・00です」

 かつて1974年に日本ハムの高橋博士捕手が1試合で全ポジションを守ったが、これはシーズン終盤の消化試合でファンサービスの色あいが濃かった。五十嵐さんは10年かけて九つのポジションと指名打者(DH)出場まで果たしたことになる。

 「いろいろできる資質がどういうものか分からないけれど、僕は見よう見まねが得意なのかなと思います。子供の頃は江川(卓)さんや篠塚(和典)さんの物まねをしていました。守備でも打撃でも、最初にこんな感じかなってやると、好結果になった。ゴルフもそう。初めてドライバーを打った時も真っすぐ飛びました」

 「バッテリーは本職じゃないので練習もしていないし、そこを語るのは失礼です。だけど、ほかのポジションは自分の役割として誇りを持って練習をしたし、それぞれに難しさ、楽しさも感じた。最後に投手をやらせてもらったのは、いろいろなところで一生懸命頑張ってきたことへのご褒美(ほうび)なんだと思っています」

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2111118 0 プロ野球 2021/06/09 09:55:00 2021/07/08 10:00:04 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/06/20210608-OYT1I50050-T.jpg?type=thumbnail

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