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一茂を後楽園に忘れた理由、歌舞伎を取り入れた守備…勇退20年のミスター伝説を「全部読む」

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 ミスター・プロ野球、長嶋茂雄さん(85)が、巨人の2度目の監督を勇退表明してから28日でちょうど20年。大スターでありながら、ユニークなキャラクターで国民に広く親しまれた長嶋さんの名場面や、逸話・伝説の数々を紹介する。(読売新聞オンライン)

2013年7月、出身地・千葉県佐倉市の市民栄誉賞授賞式で
2013年7月、出身地・千葉県佐倉市の市民栄誉賞授賞式で

高校時代のバックスクリーン弾(1953年8月1日)

 佐倉一高(千葉)の3年時、甲子園出場を懸けた南関東大会1回戦の熊谷高戦で放った。高校生の本塁打が珍しい時代で、ミスターもこれが高校時代の公式戦では唯一のホームラン。後に自ら「打球が緑色に塗られたバックスクリーンに命中した様子は、今も鮮烈に覚えている。あの大宮球場の一本のホームランが僕の生涯を決めたような気がする」と振り返っている。

東京六大学新記録の8号本塁打(57年11月3日)

 現在の通算最多記録は高橋由伸(慶大)の23本だが、当時は7本塁打が最多。ミスター自ら「我々の頃の神宮球場は今より両翼が10メートルほど遠くて、左中間、右中間は、うーんと広かった。ボールは今のように弾みませんでした」と振り返る通り、現在とは条件が違った。4年生の春に7号を放ち、注目度が高まる中、秋の最終戦、慶大戦で記録を更新。「舞い上がりながらベースを1周しました」

東京六大学新記録の8号本塁打を放ちナインに迎えられる
東京六大学新記録の8号本塁打を放ちナインに迎えられる

デビュー戦で金田正一に4打席連続空振り三振喫す(58年4月5日)

 巨人に入団し、新人の年の開幕戦に3番・三塁で先発した。4番は打撃の神様、川上哲治だった。後に「このゲームで三振したのは私だけじゃない。みんなキリキリ舞い」と強がったこともあったが、「速球は見たこともないスピード。100マイル(約161キロ)は出ていた。あの晩はカッカして眠れず、夜中に起き出してバットを振ったのを覚えている」と語っている。延長十一回を投げ抜いた金田は14三振を奪った。

デビュー戦で初対戦の国鉄・金田正一(右)に空振り三振
デビュー戦で初対戦の国鉄・金田正一(右)に空振り三振

天覧試合でサヨナラ本塁打(59年6月25日)

 阪神の村山実から九回、左翼ポール際に放った。「インハイの球。見逃せばボールです。二塁、三塁、ホームへと回りながら背中がぞくっとした。生涯のベストシーン」と回顧している。ちなみに、この試合では王貞治も七回に本塁打。106度の「ONアベック弾」の第1回となった。NHKと日本テレビが生中継した。

天覧試合でサヨナラ本塁打。上部のスコアボード横は貴賓席(合成写真)
天覧試合でサヨナラ本塁打。上部のスコアボード横は貴賓席(合成写真)

王の死球後に本塁打(68年9月18日)

 優勝を争っていた阪神戦、バッキーの王への危険な投球を巡り、両チームから退場者が出る中、代わった権藤正利の投球が今度は王の頭を直撃した。その直後、長嶋は左翼へ3ラン。「あの打席だけは今季最高に燃えた。コンチクショウ。やってやる」。そんな談話が当時の読売新聞に紹介されている。

空振り三振は豪快にヘルメット飛ばす

 自伝で「V9初期の頃、私だけは大リーガー用のヘルメットを使用していた。長頭系の外国人に合わせたもので、私がかぶると前後に1センチほどの遊びができた。思い切り空振りするとヘルメットが飛んだ。その瞬間、ネット裏から『ワー』という歓声が聞こえた。それでひらめいた。空振りでも喜んでくれるのだと」と、このパフォーマンス誕生秘話を明かしている。「失敗の練習」もしていたそう。2014年には東京ドームの正面入り口に豪快な空振りのレリーフが設置された。

「スポーツ報道写真展」にも空振り写真が展示された(2018年3月撮影)
「スポーツ報道写真展」にも空振り写真が展示された(2018年3月撮影)

華麗なランニングスロー

 これもファンを喜ばせたいというミスターの信念から生まれたパフォーマンス。「猛然とダッシュしてゴロをさばき、一塁に矢のような送球をした後、右手をひらひらと打ち振る。歌舞伎の団十郎が花道で見えを切る時の所作を取り入れた」と自ら記している。

1964年2月の宮崎キャンプで
1964年2月の宮崎キャンプで

おっちょこちょい伝説(自著より。抜粋)

 1)「おい、俺のストッキングが1本しかないぞ。誰か間違えて持っていったんじゃないか」と言ったら、ただ左足に2枚重ねてはいていたのに気が付かなかっただけ。

 2)ルーキーイヤーの1958年の9月、後楽園球場での広島戦で左中間へ柵越えの打球を放ったミスターだが、一塁を踏まず本塁打は幻に。ミスターいわく「あの踏み忘れには理由がある。ショートの頭のすぐ上をライナーで越えていった。三塁も狙えるかなと走りながら考えた。三塁打、塁上のクロスプレーは野球の華ですから。一塁を回る頃には二塁だ、三塁だと考えながら打球の行方を追っていた」

1970年の日本シリーズで最優秀選手の賞品に腰掛け、笑顔で歓声に応えるミスター。この明るさで国民を魅了した
1970年の日本シリーズで最優秀選手の賞品に腰掛け、笑顔で歓声に応えるミスター。この明るさで国民を魅了した

 3)ベテランと言われるような年齢になり、スランプに苦しんだ年だった。川崎球場で試合前に特打ちを行った。大鏡の前でバットを振り、ボール80個入りのかごを三つ空にした。シャワーを浴び、バスタオルを腰に巻いてロッカーにやってきてシャツを着始めた時、牧野コーチが「これから試合だというのに何をやっているんだ」。打ち込みに熱中のあまり、試合前を試合後と勘違いしてしまった。

 4)長男の一茂(1966年1月生まれ)が幼稚園の頃、後楽園球場に連れていった。試合は2三振の4タコ。おまけに守備でトンネル。怒り狂った状態でカッカしたまま、頭の中は一刻も早く自宅に戻り、地下室でスイングすることしかなかった。自分が連れてきた一茂のことはどこかに吹っ飛んでしまった。(帰宅して)家内に「一茂は」と聞かれて気がついた。

バットを持たずに打席へ

 これは、おっちょこちょいではない。満塁でも敬遠されたことがあるミスター。自著で「敬遠はせっかく球場に来てくれたファンの楽しみを奪う背信行為」と完全否定する。その抗議の表れとして、3ボールからを含めて4回、「バットを持たずに無言で構えた」ことがあるとしている。

亜希子夫人と結婚(65年1月26日)

 前年の東京五輪で、大会コンパニオンとして各国要人のおもてなしをしていた亜希子夫人と報知新聞の企画で対談したのがきっかけ。五輪直後の11月には婚約会見。「2人でデートしたのは6、7回かな」と明かした。

亜希子夫人とカトリック渋谷教会で挙式。祝福され式場を出る
亜希子夫人とカトリック渋谷教会で挙式。祝福され式場を出る

引退セレモニーで「わが巨人軍は永久に不滅です」(74年10月14日)

 あまりにも有名なあいさつ。後に「前もって考えていた言葉でなく、自然と出たもの」と明かしている。「正直に素直にファンの皆さんに対する自分の心を語っていくうちに、口をついて出た。いい話をしようとか、格好つけようと考えて述べた言葉は、決して人の心を打つことはないと思ったから」

後楽園球場で万感の思いを胸に、ファンに現役引退のあいさつ
後楽園球場で万感の思いを胸に、ファンに現役引退のあいさつ

「ヘイ、カール!」(91年8月25日)

 東京で行われた陸上の世界選手権で男子100メートルをスーパースターのカール・ルイス(米)が制すると、日本テレビの「総合司会」としてスタジアムの熱狂を伝えていたミスターがルイスに向かって何度も叫んだ。自らが提唱した子供たちに夢を与える財団を通じて知り合いだったルイスは、声の主に気づくと駆け寄った。

10・8決戦で「勝つ、勝つ、俺たちが絶対勝つ」(1994年)

ナゴヤ球場でのペナントレース最終戦で優勝を決め、ナインに胴上げされる
ナゴヤ球場でのペナントレース最終戦で優勝を決め、ナインに胴上げされる

 93年に2度目の監督に就任。翌年のペナントレース最終戦で勝率で並んだ中日との決戦を前に、選手らにそう語り、暗示をかけた。選手たちへの声かけは「少ない言葉で、と決めていました。台本はないけれど。僕の場合、その瞬間に思いついたことを言う」。報道陣には「国民的行事」と大一番をアピールした。槙原、斎藤、桑田の3本柱の継投も成功した。

11・5ゲーム差をひっくり返す「メークドラマ」(96年)

 7月に首位広島との差は11・5ゲーム差。優勝は絶望的と思われたが、ミスターは「メークドラマ、奇跡を起こそう」とナインに奮起を促した。「強がりとかカンじゃない。冷静にこちらと相手の戦力を分析していた」。その言葉通り、8月に首位に立ち、優勝した。「メークドラマ」は流行語大賞にも選ばれた。

日本シリーズON決戦(2000年10月)

日本シリーズ開幕前日、健闘を誓い合うON
日本シリーズ開幕前日、健闘を誓い合うON

 王監督率いるダイエー(現ソフトバンク)との対戦はミレニアム決戦とも言われた。先に日本シリーズ進出を決めていたミスターは、ON決戦が決まると「20世紀の最後の年の有終の美を飾ってみようという気持ちがあります。野球の 醍醐味(だいごみ) みたいなものを、ファンに味わっていただけるよう頑張っていきたい」と語った。ミスター率いる巨人が4勝2敗で制して6年ぶりの日本一に輝いた。

「野球というスポーツは、人生そのものだ」

2001年9月の退任記者会見
2001年9月の退任記者会見

 この言葉が初めて読売新聞紙上に載ったのは2000年2月。巨人が現在もキャンプを行っている宮崎県営球場の愛称を募集。応募者の中から最優秀賞に選ばれた女性に対し、「野球というスポーツは、人生そのものだ!」の自筆のサイン色紙を贈った。翌年の9月28日に監督を勇退することを表明した際には、「野球とは人生そのもの」と記者会見で語った。その頃からミスターの名言として広まったと思われる。

脳梗塞で入院(04年3月4日)

 8月開催のアテネ五輪の監督などとして多忙な生活だった。自著で「生死の境をさまよい、やっと2日たって気が付いた。最初は死ぬか生きるかわからない状況。次に『家族の方は寝たきりを覚悟してください』と言われた」と自ら振り返っている。アテネ行きは断念。リハビリを重ねて1年4か月後に、巨人戦を観戦した際には「久しぶりに東京ドームに来て、やっぱり野球場はいいなあと思いました」などと談話を発表した。

アテネ五輪で日本代表はベンチにミスターのユニホーム、自筆の「3」入りの日の丸を掲げて戦った
アテネ五輪で日本代表はベンチにミスターのユニホーム、自筆の「3」入りの日の丸を掲げて戦った

松井秀喜さんとともに国民栄誉賞受賞(13年5月5日)

 東京ドームで表彰式が行われた。その後の始球式では、背番号「3」のユニホームで打席に立ったミスターが、左腕一本で松井さんの投げたボールに対しバットを振った。空振りだったが、松井さんは「打つという殺気を感じた」。長嶋さんは「気持ちが高ぶりましたね。いい球だったら打ったと思う」と振り返った。

国民栄誉賞表彰式後の始球式で松井さんのボールを打とうとしたが空振り
国民栄誉賞表彰式後の始球式で松井さんのボールを打とうとしたが空振り

東京五輪の開会式で聖火走者に(21年7月23日)

 松井さん、王さんとともに聖火を掲げながら、国立競技場内をゆっくりと歩いた。読売新聞に寄せた特別観戦記に、「アテネ五輪では病に倒れ、私自身は出場できなかった。その無念は今も胸にある。国立競技場のフィールドに足を踏み入れる直前は何とも言えない高揚感に包まれていた。気がつけば、現役時代のように、隣にいた王さんに『さあ、行こう!』と声をかけていた。松井君の支えを受けて歩みを進めながら、『オリンピックは特別だ』と実感した」と記している。

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2399890 0 プロ野球 2021/09/28 11:52:00 2021/09/28 11:52:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/09/20210921-OYT1I50038-T.jpg?type=thumbnail

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