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[土俵模様]若貴の父は「五輪の星」…メキシコ大会 競泳有望株

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「高田がいるから、水泳じゃ…」角界入り

 相撲界にもオリンピックの代表候補と騒がれた人がいる。筆頭格が「角界のプリンス」と呼ばれた元大関貴ノ花の花田満さん(2005年没、享年55)。若貴兄弟の父親だ。中学時代に競泳の100メートルバタフライで中学記録を打ち立て「1968年メキシコ五輪の有望株」として、その名を上げている。半世紀前のライバルたちとプールサイドに光を当てた。(編集委員 三木修司)

幕下時代の貴ノ花(当時は花田、左)と腕相撲をする当時高校2年生の高田さん(1966年秋頃、高田さん提供)
幕下時代の貴ノ花(当時は花田、左)と腕相撲をする当時高校2年生の高田さん(1966年秋頃、高田さん提供)

ライバル2人 元貴ノ花語る…メキシコ五輪代表・高田康雄さん 北海道水連理事・和田善治さん

 ――前回東京五輪が開かれた64年の全国中学校水泳競技大会(全中=埼玉県川口市)。100メートルバタフライは高田康雄さんが1分3秒7で優勝し、花田さん(東京都杉並区立東田中)が1分4秒6で2位。ともに中学新記録でした。

  高田 「互いに新記録を何度も出し合った。でも一緒に泳いで負けた記憶はない。若乃花(当時は二子山親方)の弟ということでも有名だった。卒業後は強豪の東京・日大豊山高へ進むと聞いていた。ところが急転、大相撲へ行くと知って驚いた。転身を決意したとき、『水泳じゃ飯が食えない』と語ったセリフが有名だが、ある新聞には、その言葉の前に、『高田がいるから』と言ってくれている。常にナンバーワンを目指す男だった」

たかだ・やすお メキシコ五輪の競泳バタフライ100、200メートル代表。宮崎県延岡市出身。同市立岡富中、大分県立臼杵高から早大。71歳
たかだ・やすお メキシコ五輪の競泳バタフライ100、200メートル代表。宮崎県延岡市出身。同市立岡富中、大分県立臼杵高から早大。71歳
わだ・よしはる 北海道水泳連盟常務理事。熊本県八代市出身。同市立第二中、長崎県立諫早商高から実業団の河合楽器。71歳
わだ・よしはる 北海道水泳連盟常務理事。熊本県八代市出身。同市立第二中、長崎県立諫早商高から実業団の河合楽器。71歳

見上げる長身 得意は100バタ

 ――和田善治さんは学年がお二人の1級下です。

  和田 「我々にとって二人はスーパースター。全中で一緒に泳ぐこと自体が名誉だった。花田さんは100メートルが得意種目。200メートルの決勝は100のターンの後、花田さんが疲れてきた。『追いつけるかも』と感じ、ラスト50は『これは勝てるぞ』と燃えて、必死に追ったら花田さんに勝って3位だった。6位まで並ぶ表彰式は台の真ん中に優勝の高田さん、僕の隣に4位の花田さん。1メートル80で見上げるような長身だ。柔道出身で筋肉マンだった高田さんは、大きなストロークで水中をドーン、ドーンと進んだ。花田さんは上体を起こしてバッサ、バッサと腕力で引っ張るような泳ぎ。対照的だった」

米へ水泳留学 ステーキ驚いた

 ――花田さんは日大豊山に進学後、米国カリフォルニア州へ水泳留学する青写真もあったそうです。

  高田 「サンタクララの水泳クラブだ。僕はメキシコ五輪があった68年の大学1年生から行った。25メートルと50メートルの温水プールがあって、当時からビデオ撮影の機材も完備していた。泳いだ後、プロコーチと一緒に自分のフォームをチェックできる。宿泊先には大型冷蔵庫があって牛乳だハムだと何でもあった。『好きに食べてください』という。厚さ3センチのステーキには驚いたな。日本では井戸水の冷たい屋外プールだった。冬場、温水プールでの練習は週に1度、各大学に2時間ずつ割り当てられた。夕飯はどんぶり飯1杯と良くてメンチカツ。これで欧米選手と勝負してきた」

メキシコ五輪のホープと期待された中学時代の花田さん(1965年1月撮影)(c)日刊スポーツ
メキシコ五輪のホープと期待された中学時代の花田さん(1965年1月撮影)(c)日刊スポーツ
子どもの頃から運動神経が抜群だった当時19歳の貴ノ花
子どもの頃から運動神経が抜群だった当時19歳の貴ノ花

 ――花田さんは68年9月の秋場所で十両優勝し、11月の九州場所で新入幕を果たす。早大1年だった高田さんは10月のメキシコ五輪で日の丸を背負いました。

  高田 「花田の活躍は意識していた。僕は高校1年のときに日本選手権の200メートルバタフライで優勝し、2年の秋、当時幕下だった花田を東京の相撲部屋に訪ねた。腕相撲をやった記憶はあるが何を話したかな。進む道が分かれてから会ったのは、このときだけだ。花田が親方になった頃、奥さんから、『遊びに来てください』と人づてに聞いたが行けなかった。もし、行っていたら、『おい、花田』『おお、高田』って呼び合う仲になっていただろうか。人生に別の展開があっただろうか。そんなことをふと考える。早くに逝ってしまったことが寂しい」

ミュンヘン後 大関に

取材後記  1972年ミュンヘン五輪では田口信教が100メートル平泳ぎで金メダルを獲得した。当時関脇だった貴ノ花は週刊現代(同年9月26日増刊号)の五輪特集=写真=に登場し、「田口がスタート台に立ったとき、『ああ、俺も水泳を続けていたらよかったなあ』と、うらやましくなった」と我がことのように喜んだ。表彰式で日の丸が揚がり、君が代が流れた場面では「もうジーンときたね」と本音を語った。そして、同五輪閉幕後の9月27日、貴ノ花は大関昇進を伝える使者を迎えた。

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2222960 1 大相撲 2021/07/21 05:00:00 2021/07/21 13:54:51 2021/07/21 13:54:51 幕下時代の貴ノ花(当時は花田、左)と腕相撲を取る高田さん(1966年秋頃、高田さん提供) ※インターネット使用可能です https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/07/20210720-OYT1I50145-T.jpg?type=thumbnail

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