[長崎原爆]<上>いまだ踏めぬ ナガサキの地

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金比羅山中腹から爆心地方面を望む(1945年8~9月、小川虎彦氏撮影、長崎原爆資料館所蔵)
金比羅山中腹から爆心地方面を望む(1945年8~9月、小川虎彦氏撮影、長崎原爆資料館所蔵)

被爆 惨禍の声伝える

 あの夏から一度も、長崎を訪れていない。「片付けられなかった遺体がどれだけ残っているか知っている。その土地を踏むことはできない」。東京都小平市の田中美光(よしみつ)さん(93)は目を伏せた。

 長崎市内を見渡せる金比羅山の中腹。爆心地から1・5キロの高射砲陣地で、陸軍の2等兵だった田中さんは75年前の8月9日を迎えた。空気を切り裂くような轟音が聞こえ、とっさに地面に伏せた。目を押さえた指の隙間から黄色い光を感じると同時に意識を失い、気がつくと、崖下の側溝に倒れていた。見下ろした長崎の街は火の海だった。

遺体片付け 慚愧の詩20編

「原爆による苦しみは生涯をかけても書き尽くせない」と語る田中美光さん=西孝高撮影
「原爆による苦しみは生涯をかけても書き尽くせない」と語る田中美光さん=西孝高撮影
田中さんが原稿用紙につづった詩(7月19日、東京都小平市で)
田中さんが原稿用紙につづった詩(7月19日、東京都小平市で)

 被害確認を命じられ、2等兵の田中さんが陣地の水飲み場に行くと、髪が焼け、耳は溶け、目玉が飛び出した動員学徒たちがいた。「兵隊さん水をください」と懇願されたが、喉まで焼かれた少年たちは、水をのみ込むこともできなかった。

 翌日配置された負傷者の収容所には、包帯でぐるぐる巻きにされた母親と幼子がいた。「痛い、痛い」という母のうわごとは、子の手首に付けられた鈴がチリンと鳴るたび、ぴたりと止まった。「この子を頼みます。見捨てんでください」。そう言って息絶えた母を追うように、子も死んだ。

 さらにその翌日、道に転がったままの遺体の処理を命じられた。ウジがわいた遺体や炭化した遺体を5、6体ずつ集めて焼く「作業」を繰り返した。「道路が遺体で埋まり、物資や食料を運ぶトラックが通れなかった。道路を通すことは生きている者にとって重要だった」。感情は殺した。

 夜、火葬作業の責任者だった軍人と腹をすかせて陣地に戻り、食料庫の奥から熱線を浴びずに残った4、5本のトウモロコシと2本のナスを見つけ出した。くすぶっていた火を集めて焼いた。白い灰になった火種をよく見ると人の骨だった。

 「亡くなった戦友たちの骨の上で、今晩生きるための食べ物を焼いたのか」。がくぜんとしていると、僧侶でもあった責任者は慰めてくれた。「みんな仏だ。許してくれるよ」

 その直後から下痢や発熱で10か月以上床に伏せ、死を覚悟した。復調後、古里の大分県で教育委員会に就職。社会教育に携わり、30歳代半ばからは小中学校などで自らの被爆体験を語った。7年ほど前から、あの日聞いた声を思い出し、詩を作っている。

  名も知らぬ人々よ
  きみたちは
  2日前 ピカドンの
  熱線に焼き殺され
  今日はまた
  死体処理班の
  我等の手で
  再びこの穴で
  火と燃えるのか

 仲間に水を運ぶ死にかけの学徒を手伝わなかったこと、泣き叫ぶ幼子を見捨てたこと、死にゆく仲間に何もしてやれなかったこと……。慚愧(ざんき)の念を書き留めた詩は、20編になった。

 「生涯かけても書き尽くせないが、人間の心を切り刻む原爆の無残さを知る者として残したい」。被爆者がこの世からいなくなる時を想像すると、ますますその思いは強くなる。詩は長崎原爆資料館に寄贈するつもりだ。

「子どもに希望を」語り部に

被爆後の困窮した生活を振り返る長野靖男さん(7月16日、長崎市で)
被爆後の困窮した生活を振り返る長野靖男さん(7月16日、長崎市で)

 被爆の記憶はほとんどない。でも、伝えたいことがある。長崎県時津町の長野靖男さん(77)は9月、語り部を始める。

 爆心地から5キロの自宅付近で被爆した。当時2歳。母は長野さんを抱きかかえ、道に伏せたらしい。記憶にあるのはかすかな土のにおいだけだ。「こんなわずかな体験は話す価値もない」と感じていた。

 戦後の暮らしは貧しかった。父が失業し、ランドセルも服も靴も準備してもらえず、いつも腹をすかせていた。修学旅行にも行けなかった。昨年、爆心地に近い山里小の児童に貧乏した話をすると、「被爆後の子どもたちがどんなつらい目にあったのか初めて知った」という感想をもらった。「こういうことも話す意義はあるのかな」と思った。

 もう一つ、伝えたいのは、長年親交があった車いすの語り部・渡辺千恵子さん(1993年に64歳で死去)のことだ。16歳で被爆し、下半身不随となった渡辺さんは、55年に被爆者団体の先駆けとなる「長崎原爆乙女の会」を結成。翌年の原水爆禁止世界大会で母親に抱えられながら核廃絶を訴えた。

 渡辺さんは軍拡競争が激しさを増す時代にあっても、「世界は必ず変わる。未来は明るい」と言い続けた。2017年に核兵器禁止条約が国連で採択された時、渡辺さんの「予言」の意味を知った。だから語り部として、子どもたちに確信を持って言える。

 「君たちの未来は核兵器のない平和な世界になる希望に満ちている。世界は必ず変わるのだから」

 1945年8月9日、長崎に投下された1発の原爆は一瞬で多くの命を奪い、生き延びた人たちの心身を今もなおむしばみ続けている。同じ苦しみは誰にも負わせない――。被爆者の平均年齢が83歳を超え、残された時間が限られる中、変わらぬ思いを伝えたい。

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1386136 0 トピックス 2020/07/31 05:00:00 2020/07/31 05:00:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2020/08/20200803-OYT8I50083-T.jpg?type=thumbnail

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