森保一・サッカー日本代表監督の恩師が語る「今西和男チルドレン」の群像

メモ入力
-最大400文字まで

完了しました

 コロナ禍で活動をストップしていたサッカー日本代表は、10月のオランダ遠征で久々に国際試合を行う。指揮を執る森保一監督(52)が、サッカーと人生の師と仰ぐのが、今西和男さん(79)だ。J1リーグのサンフレッチェ広島や、その前身である日本リーグの東洋工業(マツダ)などでチーム作りをつかさどってきた今西さんは、知る人ぞ知る人材育成の巨匠。森保ジャパンの活動再開を機に、近年の日本サッカー界を彩ってきた名選手や名指導者がそろう「今西チルドレン」たちを、師匠の言葉とともに紹介しよう。(編集委員・川島健司、本文中敬称略)

「人の話をよく聴いて話す男」森保一

 1980年代半ばのある日、マツダのチーム編成責任者だった今西は、本拠地の広島から長崎へスカウトに出向いた。資金が潤沢ではなかった当時のマツダにとって、首都圏の大学から有名な若手選手を獲得するのは難しく、地理的に近くてサッカーの盛んな九州から高卒選手を重点的に採用していたのだ。訪れた長崎日大高の練習場で、ある選手に目を留めた。

 「いつも背筋を伸ばして、顔を上げてプレーしているじゃないか」。それが、無名の高校生だった森保だった。

 当時、日本に芝のグラウンドはほとんどなかった。バウンドの不規則な土の上では、ボール扱いに苦労して下ばかり見てサッカーをする選手が、どうしても多くなる。そんな中にあって、姿勢の良さが生み出す森保の「視野の広さ」は光っていた。これが、森保を高卒時に獲得する決め手になった。

 今西は東京教育大(現・筑波大)出身で、サッカー選手を引退した後は東洋工業のサラリーマンとして従業員教育や独身寮の管理・運営に携わってきた。教育の道を歩んできた指導者らしく、マツダやサンフレッチェ広島に職場を移して以降も、サッカーの技術を教える以前に社会人としての素養を磨き、人間の幅を持たせることに重きを置いた。獲得した選手たちを集めて「聴く、話す、考える」を実践させる勉強会を開き、英会話の講座まで用意していた。

サンフレッチェ広島に復帰した森保一(左)が、今西和男総監督と握手(1999年1月、広島市内で)
サンフレッチェ広島に復帰した森保一(左)が、今西和男総監督と握手(1999年1月、広島市内で)

 そんな今西の薫陶を受けて「話すのは上手じゃないけど、人の話を相手の目を見ながら真剣に聴く。そして、質問の意味をきちんと理解して話す習慣を、しっかりと身につけた」のが森保だったという。

 森保は社会人として成長するにつれ、サッカー選手としての素質も開花させていく。チーム戦術を深く理解し、献身的にプレーする主力選手へと成長した。

 1990年代には日本代表に抜擢され、攻守に幅広く動き回るボランチのポジションで活躍した。三浦知良(カズ)やラモス瑠偉らとともに93年に出場したワールドカップ(W杯)予選では、最終戦の土壇場に失点して本大会初出場を逃した「ドーハの悲劇」を経験している。2003年シーズンを最後に35歳で現役を引退するまで、Jリーガーとしてピッチを駆けた。

 サッカー指導者に転じてからは、現役時代以上に輝かしい道を歩む。コーチを経て、12年にサンフレッチェ広島の監督に就任。その年と翌年のJ1リーグを連覇するなど3度の年間優勝を果たした。そんなJクラブの日本人監督としては傑出した実績をひっさげて日本サッカー協会所属の指導者となり、18年のW杯ロシア大会ではコーチとして日本代表の決勝トーナメント進出に貢献した。大会後に代表監督へ昇任し、19年のアジア杯で準優勝。東京オリンピックを目指す年代別代表の監督も兼務して奮闘中だ。

 代表監督としても、かつて今西の下で磨いたコミュニケーション能力を生かし、選手と会話して意見を吸い上げながら戦う姿勢に徹している。森保自身が「今西さんから、よきサッカー選手である前によき社会人であれ、と指導していただいたことが今につながっている」と、恩師への感謝を常々口にしている。

東京オリンピックを目指す年代別日本代表の首脳陣。左端が森保一監督で、その隣が横内昭展コーチ(2019年11月、広島開催のコロンビア戦で)
東京オリンピックを目指す年代別日本代表の首脳陣。左端が森保一監督で、その隣が横内昭展コーチ(2019年11月、広島開催のコロンビア戦で)

「森保とは抜群のコンビ」横内昭展

 森保率いる日本代表、そして五輪代表のスタッフとして、右腕ともいえる存在が、コーチの横内昭展(52)だ。森保より1学年上の横内は、福岡の東海大五高(現・東海大福岡高)出身。彼も高校時代から注目されていた選手というわけではなかったが、今西がマツダで獲得し、サンフレッチェ広島でもプレーした。

 現役時代のポジションは、左のウィング。Jリーグで目立った活躍はできなかったが、その才能を今西は高く評価していた。「フェイントを三つ四つ持っていて、キュッキュッとドリブルで抜けていく。左利きのテクニシャン」。森保とは連係することの多いポジションで、2人の相性は抜群だった。「意思疎通を図っているわけではないのに、うまくやっていた。当時の日本で、ああいうコミュニケーションの取れるコンビを、あまり他では見なかったですね」

 年上ながら、過剰に意見を主張するのは控え、あくまでも森保を立てていく。二つの代表チームの活動が重なる際には、森保不在となる五輪代表で横内が「監督」を務め、練習・試合の指揮を執る。「あのコンビで日本のチームを作るなら、うまくやっていけると思います」と、師匠も太鼓判を押す。

「日本サッカーを変えた」ドーハの指揮官ハンス・オフト

 日本代表に今西がもたらしたものを語るうえで、この人のことは欠かせない。ハンス・オフト(73)。日本代表初の外国人指揮官として、ドーハの悲劇当時のチームを率いたオランダ人監督だ。

 代表監督に就任する前、オフトは1984年から5シーズン、マツダで監督やコーチを務めていた。招いた経緯を、今西はこう説明する。「いい監督を紹介してほしいと、欧州につてのあるサッカー仲間を頼ったところ、ベルギーのサッカー関係者からオフトを推薦された。ぜひお願いしますということになった」

オフト監督(1993年5月撮影)
オフト監督(1993年5月撮影)

 1992年から93年にかけては、今西の推薦にも後押しを受け、日本代表監督を務めた。W杯出場は果たせなかったが、ダイナスティ杯やアジア杯ではチームを優勝に導くなど、Jリーグ創設(93年)前後の日本サッカーを大きく成長させた功労者となった。マツダで指導した森保を日本代表に抜擢したのもオフト。今西はこう評価する。「彼はよく本を読む人で、日本人にとって分かりやすい英語を話した。オフトから欧州サッカーの基本的な技術や戦術の指導を受けて、日本のサッカーは変わった」。オフトはその後、ジュビロ磐田など複数のJクラブ監督も歴任した。

岡田ジャパンを生んだ進言

 今西は日本代表史に、もう一つ大きな足跡を残している。98年W杯フランス大会に向けたアジア最終予選。日本サッカー協会の強化副委員長として代表のカザフスタン遠征に同行していた今西は、成績不振にあえいだ加茂周監督の解任と岡田武史コーチの監督昇格を、協会幹部に進言した。その案を受け入れる形で誕生した岡田ジャパンが、苦境を脱してW杯初出場を勝ち取った。

 「岡田はいろんなプレッシャーがあったでしょうけど、よくチームを再建してアジアの代表になりましたよ」

 なお、この時の岡田ジャパンでコーチを務めた小野剛(現・日本サッカー協会技術委員会副委員長、元委員長)も、岡田の求めに応えて今西が広島の強化部から送り込んだ人材だった。

「繊細だった」アジアの大砲・高木琢也

「アジアの大砲」と異名をとった現役時代の高木琢也(左から2人目)。1992年のアジア杯では、サウジアラビアとの決勝で日本を優勝に導くゴールを決めた(11月8日、広島市広域公園スタジアムで)
「アジアの大砲」と異名をとった現役時代の高木琢也(左から2人目)。1992年のアジア杯では、サウジアラビアとの決勝で日本を優勝に導くゴールを決めた(11月8日、広島市広域公園スタジアムで)

 オフト監督が日本代表を率いていた時代、「アジアの大砲」として、前線で活躍したのが高木琢也だ。恵まれた体格を生かしたストライカーだったが、性格は「繊細で、自分の考えに合わないことはやらない頑固さを持っていた」という。

 そんな高木を、今西は「将来、サッカーでやっていきたいのであれば、必ずしも自分の考え通りにいかないこともある。人の話はちゃんと聴かないと」と諭した。指導するうちに「だんだん成長してきた」選手だったという。広島でエースの活躍を見せると日本代表にも選出され、1992年のアジア杯決勝でチームを優勝に導くゴールを決めるまでになった。

 引退後の高木は、Jクラブの指導者として立派な実績を積み重ねてきた。横浜C、東京V、熊本、長崎の監督を歴任し、横浜Cと長崎ではチームをJ1昇格に導いた。52歳になった現在は、大宮の指揮官として堅実なサッカーを展開している。

「ドラゴン」久保竜彦も

 日本代表の歴代ストライカーでは、高木のほかに、久保竜彦(44)も今西チルドレンだ。今西が総監督だった広島でJリーグにデビュー。移籍後は横浜Mでゴールを量産し、Jリーグ連覇に貢献した。ファンや仲間には「ドラゴン」と呼ばれる。日本代表では、W杯出場こそ縁がなかったものの、ずば抜けた身体能力と豪快なプレーで、歴代監督から高い評価を受けていた。引退後は少年サッカーの指導にあたっているという。

「抜群にうまかった」風間八宏

 広島が1994年前期のJリーグを制したとき、森保と共に中盤の中心選手だったのが風間八宏だ。静岡・清水商高(現・清水桜が丘高)時代にユース(20歳以下)日本代表に選ばれた天才肌のMFは、筑波大出身で、今西の大学の後輩にあたる。80年代半ばからドイツのチームで長くプレーし、日本サッカー「海外組」の先駆けとなった選手の一人でもある。「彼は抜群にうまかった。好きにやってごらんと言ったら、当時の日本人選手なら2~3人を相手にしても、ボールを取られませんでしたよ」と今西が振り返るほど、高い技術を誇った。

 指導者としては、今季のJ1で圧倒的な強さを見せている川崎を2016年までの5シーズン指揮し、その後は名古屋でも監督を務めた。川崎ではタイトルにあと一歩で手が届かなかったものの、魅力ある攻撃サッカーをチームに植え付けた。今西も「川崎の基盤を作ったのは風間ですよ」と、その手腕を高く評価する。「彼は負けず嫌いでね。自分をバーッと出してしまうところがある。もう少し懐が深かったら、さらに素晴らしい監督になると思います」。今年59歳になる門下生が、もう一度強豪チームを率いる日が来るのを心待ちにしている。

「頭のいい子」育成の専門家・森山佳郎に「昇格請負人」も

左から、現役時代の森山佳郎(1994年4月)、徳島のJ1昇格決定を喜ぶ小林伸二監督(2013年12月)、練習に使うマシンを試す大分の片野坂知宏監督(2017年1月)
左から、現役時代の森山佳郎(1994年4月)、徳島のJ1昇格決定を喜ぶ小林伸二監督(2013年12月)、練習に使うマシンを試す大分の片野坂知宏監督(2017年1月)

 若手育成のスペシャリストとして定評のある指導者が、U―17(17歳以下)W杯出場を目指す世代の日本代表を長く指揮している森山佳郎(52)だ。熊本県出身で、1浪して一般入試で筑波大に進み、今西にスカウトされて広島入り。ファルカン代表監督時代には日本代表にも選ばれたサイドバックだった。現役時代から「ゴリ」の愛称で親しまれる。

 「彼は元々教員志望だったんです。頭のいい子で、明るくて、ジョークを交えながら、人との関係を作れる。森保とは違うタイプですね」。1999年に引退後は、今西に誘われて広島ユースの監督に。ここから槙野智章や柏木陽介(いずれも現・J1浦和)ら数々のトップ選手を輩出して評価を上げ、2015年から日本協会のコーチになった。以降、選手が入れ替わっていく年代別代表の難しさを抱えながら、日本の将来を背負って立つ世代の選手に指導を続けている。

 小林伸二(60)は、Jリーグきっての「昇格請負人」と異名を取る監督だ。選手としては長崎・島原商高から大商大へ進んだFWで、今西の誘いでマツダに入ってプレーした。引退後はチームのコーチに転じ、高木ら後輩ストライカーの育成に手腕を発揮した。

 監督人生を歩み始めてからは、J2の大分、山形、徳島を、いずれも初のJ1昇格に導き、各地のファンや関係者に歓喜をもたらした。名門・清水がJ2に降格したシーズンの再建も託され、1シーズンでのJ1復帰を実現。2019年にはJ3で前年最下位だった北九州の監督に就いた。ここでも就任1年目で優勝という離れ業をやってのけ、J2昇格シーズンの今季も首位争いを演じている。

 片野坂知宏(49)も、マツダからキャリアをスタートさせた選手だ。左サイドバックとして広島、柏、大分、G大阪、仙台と渡り歩いた。引退後は複数のクラブでコーチを務め、2016年にJ3降格した大分の監督に就任した。

 いきなり優勝してJ2復帰を果たす。さらに18年にはJ2で2位に食い込み、J1へと導いた。Jクラブの監督として「2段階昇格」達成は快挙だ。人材に恵まれているとはいえない地方のクラブで、どこからでも点を取れる魅力的なチームを作り上げた育成手腕は確か。Jリーグで現在、大いに注目を集めている日本人監督の一人だ。

今西門下のレガシー

 今西は4歳だった1945年夏、地元の広島市で被爆した。やけどの痕は、今も左足に生々しく残る。子どもの頃は差別やいじめにも遭ったが、高校時代にサッカーを始めて救われたという。「やけどなんか関係なしに、一緒に頑張ろうという仲間ができた。きちんとプレーできるようになれば、周りが認めてくれた。人生が変わりました」

広島市内を流れる京橋川のほとりで(2020年7月)
広島市内を流れる京橋川のほとりで(2020年7月)

 そんな原体験の持ち主は「スポーツに恩返ししたい」一心で、サッカーのクラブ運営に半生を捧げてきた。選手と接するにあたっては「サッカーをやめた後も、指導者になったり、社会に出たりして飯を食っていけるようにしてやること」を心掛けてきた。だから、サッカーの技術指導以前に、社会人教育に力を尽くすようになった。

 今西門下では、広島入りするまでは無名だった選手たちが、次々と頭角を現した。多くの優秀な選手・指導者が巣立ち、今日の日本サッカー界を支えている。かけがえなく貴いレガシー(遺産)だ。

いまにし・かずお 1941年、広島市生まれ。広島市立舟入高、東京教育大、東洋工業でプレーしたサッカーの元日本代表DF。28歳で引退し、一時は社業に専念したが、82年にサッカー界へ復帰した。マツダを母体とするJリーグ・サンフレッチェ広島の強化に携わり、クラブの基礎を築き上げた。FC岐阜社長、日本サッカー協会強化委員会副委員長、吉備国際大学教授なども歴任した。

無断転載・複製を禁じます
1514843 0 トピックス 2020/10/01 15:00:00 2020/10/01 19:11:42 https://www.yomiuri.co.jp/media/2020/10/20201001-OYT8I50000-T.jpg?type=thumbnail

ピックアップ

読売新聞購読申し込み

アクセスランキング

新着クーポン

読売IDのご登録でもっと便利に

一般会員登録はこちら(無料)
ページTOP
読売新聞社の運営するサイト
ヨミダス歴史館
ヨミドクター
発言小町
OTEKOMACHI
元気ニッポン!
未来貢献プロジェクト
The Japan News
YOMIURI BRAND STUDIO
美術展ナビ
教育ネットワーク
活字・文化プロジェクト
よみうり報知写真館
読売新聞社からのお知らせ