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    文化

    幕末 若い与力の押送記…浅田次郎さん連載小説「流人道中記」

     涙なしでは読めない短編集『鉄道員(ぽっぽや)』から、清朝末期の中国を起点とする大長編『蒼穹(そうきゅう)(すばる)』シリーズまで、浅田次郎さん(66)は時代も読み味も違う数多くの作品を手がけ、読者を魅了してきた。7月1日スタートの朝刊連載小説は「流人(るにん)道中記」。浅田さんが新聞小説に挑むのは今回で5度目だが、本紙では初めて。「小説は面白くなきゃいけない」と語る作家の、満を持しての登場だ。(文化部 村田雅幸)

    罪人の旗本と奥州街道北上

    • 「小説家の才能って、想像力のことだと思うんだ。僕は一日中、バカなことばかり考えているから、向いているんじゃないかな」=園田寛志郎撮影
      「小説家の才能って、想像力のことだと思うんだ。僕は一日中、バカなことばかり考えているから、向いているんじゃないかな」=園田寛志郎撮影

     時は万延元年(1860年)夏、桜田門外の変が起きて間もない頃。姦通かんつうの罪を犯した旗本の青山玄蕃げんば(35)は、蝦夷えぞ・松前藩への「あずけ」が決まった。押送を命じられたのは、まだ19歳と若い南町奉行所見習与力の石川乙次郎おとじろう。物語は、二人が江戸から奥州街道を北上し、蝦夷地へと向かう旅を描くことになる。

     これまでにものしてきた、いくつもの時代小説と同様、舞台を幕末としたのは「現代人の気持ちを反映させるキャパシティーがあると思うからです」。例えば江戸初期であれば、当時の人々の考え方や感性を、私たちの常識で推し量ることは難しい。「でも、幼い僕を抱いてくれた曽祖父が生まれたのは明治2年、戊辰戦争の頃でした。そう考えれば、幕末は手が届く所だという気がするんです」

     現代の日本には姦通罪こそ存在しないが、浮気、不倫、セクハラといったものなら、しばしば見聞きする。人間の本質は150年程度では変わらないのだろう。ならば連載は、玄蕃の姦通を主題とするのか。

     「いや、それはあくまで前提です。玄蕃も乙次郎も、それぞれ抜き差しならぬ事情を抱えており、そちらの方がメインストーリーになっていくのだろうと考えております」

     玄蕃は、まっとうな人物とは言えないが、世襲社会ゆえに跡を継いで旗本となった。乙次郎も親を継いで与力となったが、その幼少期は不幸なものだった。二人は20日間を超える旅の中で次第に心を開き、胸に秘めていたものを語り始める。やがて乙次郎は、ろくでなしのはずの玄蕃に啓発され、成長していく。

     「乙次郎は、玄蕃というレンズを通していろいろな光を浴びることになる。やがてそのレンズの向こうに自分の視野が開けてくるというイメージですね」

     挿絵は、他紙に連載された『黒書院の六兵衛』でも伴走したイラストレーターの宇野信哉さん(44)。細密な絵が、物語に一層の深みを与えることだろう。

     「宇野さんは大変な才能の持ち主で、以前も彼の絵に僕のストーリーがついていくことがありました。ああ、そういうことなのかと、絵に教えられたんです」

     さて、読者の中には、この記事では物語の大枠しか分からない、と不満を抱く方がいるかもしれない。実を言うと、まだ物語の細かい部分は決まっていないのだ。だが、安心して待っていてほしい。理由がある。

     浅田さんが初めて新聞連載に挑んだのは、20年以上前のこと。その際は、物語の枠組みをしっかり決めてから書いたが、「それで失敗をした。本にする時に相当書き直すことになった」。

     二度と新聞小説はやるまい――。そう思うほどの苦い経験だったという。しかし、これまで4回の新聞連載で分かったことがある。

     「新聞小説は最初からきっちり枠を作ってはダメ。月刊誌連載や書き下ろしと違い、一日一日書いていくようなものだから、話がその都度広がっていく面白さがある。だから、できるだけ弾力性を持たせないといけない」

     二人の過去には何があったのか。道中では何が起きるのか。作家の想像は日々、膨らんでいくに違いない。

     「思ってもみない物語ができるんじゃないか。自分でも期待しているんです」

    江戸から松前まで900キロ

    当時の旅人、1日35キロほど歩く

     奥州街道(奥州道中)は江戸から北上して陸奥国を縦断し、津軽半島の三厩みんまや(青森県外ヶ浜町)を経て、海路で松前(北海道松前町)に達する。現在の国道4号とおおむね一致しており、総延長は900キロを超える。

     幕府が五街道の一つとして整備したのは白河(福島県白河市)までで、このうち宇都宮(宇都宮市)までは同じく五街道の日光道中を兼ねた。白河より北は、諸藩が整備したものだが、一般には奥州街道の延長とみなされ、参勤交代の大名や商人のほか、歌枕や旧跡を訪ねた松尾芭蕉といった文人や、日光、出羽三山などを目指す庶民も往来した。

     当時の日記や紀行文を読むと、旅人たちは1日あたり9里(約35キロ)前後を歩く健脚ぶりだった。「おくのほそ道」の旅に出た46歳の芭蕉も、江戸深川(東京都江東区)を「明ぼの」に出発した初日に、粕壁かすかべ(埼玉県春日部市)までの9里を歩いている。「お江戸日本橋七つ立ち」と歌われたように、早朝(七つ=午前4時ごろ)に出発することで長い距離を歩き、旅費を節約していたようだ。

     幕末に奥州を旅した人で最も有名な人物が、23歳の吉田松陰だろう。嘉永5年(1852年)3月、津軽半島に達し松前を遠望した松陰は、異国船がしばしば海峡を往来することを聞いて悲憤慷慨こうがいし、「滄溟そうめい(青々とした海)に臨みて長鯨ちょうげい(異国船)を叱せんと欲す」との詩を残した。黒船来航の1年前、すでに北から大きな時代の波が押し寄せていた。

    2018年06月29日 16時38分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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