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泉川 泰博

泉川 泰博 【略歴

日本の大学に求められる「教育力」とは

泉川 泰博/中央大学総合政策学部准教授
専門分野 国際関係理論、東アジアの国際関係、アメリカ外交政策、定性的方法論

ノーベル研究所で日本の教育を考える

 「グローバル人材教育」、「キャリア教育」、「社会人基礎力」など、日本における大学教育の問題や課題が取りざたされる昨今、私にとって日本の大学教育について改めて考えさせられる出来事があった。それは、2012年5月、ノルウェーの首都オスロにあるノーベル研究所で行われた年次セミナーに招聘された際のことである。同研究所は、ノーベル平和賞の受賞者を決定するノーベル平和委員会の事務局的役割を担うとともに、平和や紛争に関する研究活動をも行っている。昨年のセミナーのテーマは「パワーと極構造:国際システムにおける台頭国家と衰退国家」であり、私は「日本の相対的衰退とグローバル多極システムへの対応策」というテーマで発表を行った。

 この時に、同研究所の所長であり、世界的に著名な外交史家でもあるガイア・ルンデスタッド(Geir Lundestadt)氏が、セミナー参加者をご自宅でのパーティーに招いてくださった。ご自宅である少し広めのマンションには、歴代のノーベル平和賞受賞者の写真がたくさん飾られており、私がそれに見入っていたときに、ふと彼が私に話しかけてきた。彼は、ご自分の知る過去の日本人ノーベル賞受賞者が口を揃えて日本の教育に批判的であったことに驚いたと述べて、日本の教育について尋ねてきたのである。その会話に他の参加者も加わってきて、そのうちの欧米人の一人が非常に印象に残ることを言った。日本人を含むアジア人の学生は、たとえば論文の内容を要約させればネイティブの学生以上に見事に答えるが、「それについてどう思う」と問うと困ったように沈黙することが多い、と言うのである。私は少々ステレオタイプ的な見方だなと感じつつも、今も変わらぬ受験教育の現状に鑑みて、その発言の大意について賛同せざるを得なかった。

日本の大学教育の昨今

 私は日本の大学で教鞭をとるようになってまだ10年少々であり、日本の大学に関する経験は、自分が学生だった4年間を含めても15年ほどにしかならない。そうした限られた経験から感じることではあるが、日本の大学教育も随分様変わりしたと思う。私が学生のころは、「学食が混んで困るから、特に用のない学生は授業に来るな」などとおっしゃる先生がいたりして、よく言えばおおらかな時代であった。授業においても、その多くでは期末試験さえ受けて通れば単位がもらえた。しかし、現在では私の周りを見る限り、こうした「のどかな」状況はほぼ見られない。私を含め多くの教員にとって、学生に対して期末試験以外にレポートや提出物を再三求めるのが常識となり、学生は試験期間以外にも多くの課題に追われている。4年間体育会に所属し、試験期間以外に学校に行くときにはほぼ体育館と食堂にしか行かなかった(残念ながら本当である)私の目から見れば、今の大学生は随分勉強するようになったし、教員も教育に費やす時間や労力が飛躍的に拡大したのではないかと思う。

大学の教育力の向上とは何か

 だが、こうした変化が、日本の大学生の「考える力」の増大にどの程度貢献しているのかに関しては、個人的にやや疑問を持っている。前述したとおり、現在の大学生は、自分が学生だった頃と比べて勉強するようになっている。しかし逆に、あれやこれやと目先の課題をこなすことに集中するあまり、落ち着いて物事をじっくり観察したり、考えたりする余裕がなくなってはいないだろうか。また、教員があれもこれもやらそうとするあまり、学生の消化不良の原因を作ってしまってはいないだろうか。あるいは「グローバル人材」「キャリア教育」といった旗のもと、TOEICの点数を上げることや、会社に入ってすぐ「役に立つ」スキルの習得などにばかり教育の重点が置かれてはいないだろうか。

 もちろん、こういった考えに対しては、少子化の影響で大学受験が過去よりも容易になった、ゆとり教育で育った学生を大学で鍛えなおす必要があるという反論が可能であろう。じっさいに、基礎的学力が不足していると思われる学生も少なからず見受けられる。また、アメリカでの大学院留学時代の経験に基づいて言えば、日本の大学生よりもアメリカの大学生のほうが、読書量も勉強量も数段上である。しかし、先に述べたノーベル研究所での会話が意味するところは、高校までの日本の教育では試験で良い点を取ることに重きが置かれているため、与えられた課題に対して先生や教科書が示す「正解」を見つける能力は伸びるが、自分で問題を発見したり、現状を批判的に分析して自らの考えを導き出したりするといった力を伸ばす点に問題がある、ということである。もし、大学教育までもがそういった方向に向かうことが「大学の教育力の向上」と捉えられるのであれば、将来も生まれてくるであろう日本人ノーベル賞受賞者の、日本の教育に対する考えを変えることはできないのではなかろうか。

 以上述べたことは、個々の大学教員が教育に際して試行錯誤しながら様々な努力をしていることや、学生が常日頃から読書やレポートの提出に精を出すことを否定するものでないのは、言うまでもない。ここで論じたのは、大学教員も学生も、学びの大局的な目標――それを、様々な声の中で、我々は見失いがちになっている――を念頭に入れつつ、教育に向き合っていくことが肝要である、ということである。

英語教えることの困難と試行錯誤

 私は現在、総合政策学部のChallengers' Programと呼ばれる仕組みのなかで、冷戦期の国際政治および冷戦後の国際政治について、英語で2つの講義を担当している。このような英語による授業へのニーズが高まっていることは改めて説明する必要はないであろうが、そうした授業を行う際に、実際にどのような問題や課題があるのかについてはあまり認識されていないように思う。私は日本の大学で教鞭をとるようになって以来、前任校も含めてそうした「英語教える」授業を担当してきた。ここでは、そうした経験に基づいて、「英語教える」授業を行う上で教員が直面する問題について、字数の関係上1つだけ指摘したい。

 それは、日本人学生に英語で実質的科目を教える際には、日本語で教える場合と比較して深刻なトレードオフがある、ということである。学生の英語ヒアリング能力が必然的にネイティブに劣るため、説明する際によりゆっくりと、より分かりやすい英語表現を用いたり、補足的説明を加えたりする必要がある。とくに、日本語でさえも理解していない概念(国際政治学の例:安全保障ジレンマ)を理解することは困難なので、その説明には十分気を付けなければならない。さらには、ノートをとるのも学生にとっては困難なので、ノートをとれるような時間を確保できる話し方やスピードを選ぶ必要がある。この結果、英語で教える場合、日本語で教える場合と比べて与える情報量や分析の深度の両面で、どうしても妥協しなければならないのである。

 この問題に対処するために、私は授業の際には、A4で2ページ程度の授業用レジュメを配り、それにほぼ忠実な形で講義を行うことにしている。そして、レジュメには要所で虫食いを作り、そこに学生がキーワードを入れるようにしてある。こうすることで、学生がノートをとる労力を省き、講義やディスカッションに集中できるようにする。(ちなみに、このやり方はその後日本語の授業にも取り入れている。)レジュメを作るためには、授業で話す内容を細かな部分まで考える必要があるため、大変時間を要するが、おおむね学生には歓迎されているようである。さらに、キーワードや要点に関しては、ゆっくり繰り返すとともに、必ず板書する。こうすれば、聞き取れない場合、あるいは聞き取れてもスペルが分からない場合に対処できる。また、授業の内容についても、省略できる細部の話は可能な限りそぎ落とし、メインのテーマに絞るようにして、情報量は日本語の場合より少なくても、重要な点はしっかり理解できるようにしているつもりである。

 以上は、英語で教える授業を行う上で私が行っている試行錯誤の一例であり、必ずしも模範例ではないと思う。今後も様々な試みや工夫を重ねていくつもりであるが、もしこの記事をご覧になった方で、よい知恵があれば是非ご教示いただければ幸いである。

泉川 泰博(いずみかわ・やすひろ)/中央大学総合政策学部准教授
専門分野 国際関係理論、東アジアの国際関係、アメリカ外交政策、定性的方法論
香川県出身。1967年生まれ。京都大学法学部卒業。大阪ガス(株)で勤務後退職し米国に留学。1996年にジョンズホプキンス大学で修士号(国際関係学)、2002年にジョージタウン大学で博士号(政治学)を取得。宮崎国際大学、神戸女学院大学で教鞭をとった後、2009年4月より現職。主要業績に、“To Coerce or Reward? Theorizing Wedge Strategies in Alliance Politics,” Security Studies (forthcoming); "Explaining Japanese Antimilitarism," International Security (Fall 2010)など。また、A.ジョージ、A.ベネット『社会科学のケース・スタディ』(勁草書房,2013年)、H.ブレイディ、D.コリアー『社会科学の方法論争』の翻訳などあり。