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西田 治文

西田 治文 【略歴

明日を育てる自然史教育

西田 治文/中央大学理工学部教授
専門分野 植物系統進化学・古植物学

自然を記録するということ

 自然史とはNatural Historyの訳語である。ときに自然誌とも書かれ、元の意味により近いといって好む人も多い。簡略に表現すれば、自然界のあらゆる事物を記述し、永く継承することである。自然界の様子を記述するのだから、言語と図版によるだけでは証拠として信用が乏しい。そこで、できるだけ標本を保存する。現代では電子記録がこれらを補完するけれども、いかに高解像度の3Dリンゴ画像であっても、実物の標本には遠く及ばないことも心すべきである。

 なぜ記録するのか、なぜ標本を残すのかと問う人が少なからずいるが、ヒトとしてそのような疑問を呈する素養のほうが心配である。自然界の森羅万象に興味をもつことは、ヒトの知性の根幹である好奇心に根ざしており、記録を残すことは、知性の継承と成長、すなわち温故知新を実践できる唯一の知性体であるヒトの特性だからである。そもそも知性以前に、ヒトは動物なのだから、周囲の自然に注意を向けなければ生き残ることができない。そこに知性が加わることで、ヒトは事物の記録を通して自らの存在を自然の中に位置づけることができるようになった。世界各地の先史時代の穴居洞窟には、狩猟対象の動物画とともに、手形が多く残されている。そこに、手を通して「自己」を主張しはじめた古代人の姿を見ることができる。現代の科学・技術は、そのようなヒトとしての自己主張の一つの現れと捉えることができよう。しかしながら、そのような現代の自己主張は、自然界への様々な圧力としても姿を拡大し、ヒト自らの首を絞めるような事態を招くに至っている。

持続的発展に責任を持つ者

 20世紀末に人類が抱える問題として主に列挙されたのは、人口・食料・エネルギー・環境の4つであった。これらすべてに共通するのは、生物との関わりを考慮することなしにはその解決が困難だということである。さらに現在は、生物多様性という問題をあえてこれに加えるべきである。生物多様性問題は、環境問題とは明確に異なる。環境というと主に汚染や温暖化など、ヒトの生活に直接関わるように見える物理化学的変化として理解されるのが、(特に日本では)一般的である。また、そのような物理化学的変化は、「技術」によって解決できると考える人が多く、同じような発想で、生物多様性問題も簡単に解決できると信ずるむきさえある。生物多様性の基盤をなす生物は原子・分子から生態系まで段階構造をもつ複雑系をなしており、その挙動すら少しも解明が進んでいないといってよい。最も懸念されている種の急速な絶滅は、遺伝子を保管しておけばいずれ解決できると考える人が多いが、遺伝子は単なる設計図であって、それを働かせる工場にあたる細胞がなければ、生き物として成り立たない。さらに、種は一つの個体ではなく集団なので、動物でいえば少なくとも3000個体ぐらいいなければ種として維持できないという。

 ヒトはもとより、地球の生物全体が、主に光合成生物が行なう生産の上になりたつ共生系の範囲で暮らしている。さらに、生物生産に直接影響する地球の大気と水循環の安定には、多様な生態系間のバランスが深くかかわっている。すなわち他の4つの問題を懸念する以前に、ヒトの生活も経済活動もすっかり依存している生物多様性の滅失について第一に心配しなければ、人類の持続的発展は望めない。

 生物多様性は、誰かが考えればよい世界的な問題だというむきもある。しかし、世界の生物多様性は地域ごとの生物多様性の集積なので、その本質は地域が考慮すべきことである。地域の理解を進めるには、すべての住民が身の回りの生物と生態系について保全意識と責任を持つ必要がある。未来の世代においては、一人一人にこのような素養が浸透していることが理想的である。そのためには、どのような教育が必要だろうか。

日本の自然史教育

 日本学術会議には生物学分野に関連する二つの委員会がある。生命現象の解明やそれらの知識の応用に関わる研究を包含する基礎生物学委員会と、生物の多様性情報や生態系、進化などを扱うどちらかというと巨視的な生物学に関わる統合生物学委員会である。我国の科学に対する姿勢は、どちらかというと前者に偏る傾向があり、大学教育もその影響を受けてもっぱら微視的で要素還元的に自然と生物を理解させようとするものになりつつある。このため大学においては統合生物学分野に属する自然史科学の研究者が激減し、おのずと自然現象の包括的知識とそれに基づくいわば好ましい自然観を教育する場も減少している。このことは、義務教育や高校教育に携わる教員にもそのような素養が欠落しはじめていることを意味する。次世代の自然観に重大な欠陥が広がりつつあることを私は憂慮している。

 社会においてもさまざまな危機管理場面で、自然の特性をよく知る人材が失われつつあることを痛感させられる事態が続いている。近年の災害対応における判断の欠如や遅れは、自然現象を数字で測り、その結果に基づくデジタル的予測に従いさえすれば災害は回避できるという盲信にひとつの原因があると思われる。自然現象は複雑系であって予測はもともと難しいものである。そのような予測を、ヒトは同じく複雑系である脳を使って経験的に行い、アナログ的な予防措置を個人レベルにおいても講じて来た。自然から学んだいわば本能的危機管理能力が、あちこちで試されているのに、ヒトの実力が落ちていると近頃あらためて感ずる。このような事態を回避するためには、義務教育あるいはそれ以前から自然の特性を体験的に学ばせることが肝要だというのが私の持論である。

生命科学科の自然史教育

撮影:新国勇

 生命科学科では2008年の開設当初から、2年時に「自然史野外実習」という2泊3日の実習科目を設けている。野外活動には向き不向きもあるので、選択制としているが、夏休み中に「山編」、「海編」を別々に開講しており、どちらかひとつを履修できる。例年7~8割の学生が履修する。私が担当する山編は、福島県只見町を毎年訪れる(写真)。「自然史」実習であるからいろいろなものを見る。只見は有数の豪雪地帯で、山肌が雪崩によって荒々しく削り取られた独特の地形が観察できるし、日本列島の基盤の上に次々と重なった火成岩や堆積岩から大地の成り立ちを現場でとらえ、さらに中新世中期(約1100万年前)の植物化石を沢水に浸かりながら採集することもできる。化石の時代は現在よりも温暖で、化石採集の後に訪れる壮麗なブナの原生林とは全く異なる森林があった。ブナ林のハイキングでは様々な動植物にふれ、2013年の実習では学生がカメムシタケという冬虫夏草を発見した。山間部の天気は予測が難しいし、野外実習はそれなりに危険にも遭遇する。雷をともなう大雨の化石採集では、どのような危険があり、それをどう回避するかといった生の体験ができる。ハチを無意識に払うと刺されるときがあることもときには知ることになる。

 野外の自然史教育では、近頃の若者が忘れがちな五感の回復がはかられ、自然の成り立ちと生物が織り成す生態系とその歴史を体験でき、複雑系である自然界の現象は予測困難だが予防は可能なことなどを学ぶことができる。また、思うようにならない事態にしばしば遭遇することは、社会における行動規範を自らの中に構築するためには格好の体験である。

 本来であれば、ほやほやの新入生に対して実習を開講したい。2年次で行なうのは、単に夜の乾杯に差し支えるからである。生命科学科なのに自然体験のある学生が極端に少ないという現状や、学に入れば飲酒も自己管理できる大人であるという学生観も失われたことは、経済の成長を優先してきた「高度な」教育体系がもたらした深刻な欠陥であると考えている。明日はまた東京ドームの白屋根を望むという前夜、恒例のバーベキューで締めくくる。ここにおいても炭火を熾すという貴重な体験がある。煙にむせつつ、山の機嫌がよければ、壮大な天の河を仰いで、宇宙の中の自分を想うのである。

西田 治文(にしだ・はるふみ)/中央大学理工学部教授
専門分野 植物系統進化学・古植物学
1954年千葉市生まれ。千葉大学大学院理学研究科修了。1983年京都大学理学博士。1997年より中央大学理工学部教授(生命科学科)。東京大学大学院生物科学専攻客員教授。日本学術会議連携会員。元自然史学会連合代表。生物多様性JAPAN事務局長。専門は植物化石の研究。2011年の正月は南極で現地調査を行った。