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松野 良一

松野 良一 【略歴

学徒出陣70周年-元朝鮮人学徒兵を訪ねて

松野 良一/中央大学総合政策学部教授
専門分野 メディア論、ジャーナリズム論

もう一つの学徒出陣

 戦況が悪化したことに伴い、東條英機内閣は1943年10月1日、勅令755号「在学徴集延期臨時特例」を公布し、法文系を主とする大学生の徴兵猶予を停止した。いわゆる「学徒出陣」である。

 しかし、世間的にはあまり知られていない、もう一つの学徒出陣がある。それは、当時日本の統治下にあった朝鮮、台湾からの学生の学徒出陣である。1943年10月20日、陸軍省令第48号「陸軍特別志願兵臨時採用規則」が公布され、朝鮮人・台湾人学生を対象に、「特別志願兵」が募集された。表向きは志願兵であったが、志願しない学生に対して当時の文部省は、休学・退学措置を各大学に命じた。その文書である文部省通牒(43年12月3日付)と中央大学の回答書(44年1月14日付)が、中央大学に保管されている。「志願」ではあったが、実質的には、半ば強制だったことがわかる。

写真1:中央大学長に対し、陸軍特別志願制度に応じない朝鮮・台湾学徒の休学・退学を命じた文部省専門教育局長からの通牒(一部)

 このうち朝鮮人学徒たちは、徴兵検査を受け、44年1月20日に入営。日本人学生より約50日遅れての出陣であった。その数は、4300人以上と言われている。

 私の研究室では2007年から、戦争を体験した中央大学の先輩たちを学部生自らが探し出し、証言を記録するプロジェクトを進めている。これまでの成果は、『戦争を生きた先輩たち』(中大出版部、全2巻および中央評論283号特集)として刊行されている。これまで、50名ほどにインタビューしてきたが、1つの重大な事実を見逃すわけにはいかなかった。それは、戦前に中央大学は台湾、朝鮮からの学生を全国で最も多く受け入れていた大学であったという事実である。

 中央大学百年史によれば、朝鮮・台湾の学生の比率は、1942年には、全在学生の14%強。特に朝鮮については、1940年6月に「朝鮮同窓会」が結成され、会誌が創刊されている。それには1086名の朝鮮出身学生の姓名・出身地が記されており、当時の学生数約9000名に占める比率は非常に高かったことがわかる。

 我々は、この元朝鮮人学徒についても証言をまとめるプロジェクトを立ち上げた。リーダーは、澤田紫門(総合政策学部2年)が務めることになった。日本戦没学生記念会および一橋大学大学院生の秋岡あやさんたちの協力を得て、まずは3名の中央大学卒業生と連絡を取ることができた。韓国での調査は、2013年10月30日から4日間かけて行った。

元輜重兵(しちょうへい)の証言

写真2:「一・二〇同志会」会長を務める郭さん(左)と澤田紫門(総合政策学部2年)

 元朝鮮人学徒で作る「一・二〇同志会」の会長を務めているのが、ソウル市在住の郭秉乙(カクビョンウル)さん(92歳)。日本統治下の朝鮮の全州市で生まれ、同市の普通学校、高等学校に通った。家業が精米業だったために、父親からは家業を継げと言われた。しかし、当時給料が高くエリートであった銀行員に憧れ、中央大学商科に入学。新聞配達をしながらの苦学生であったが、無事に卒業して朝鮮殖産銀行に入行し全州市で働き始めた。

 しかし、戦況の悪化とともに、招集の手が郭さんのところまで伸びてくる。

 「陸軍省令48号による特別志願兵は、約7000名が該当すると見込まれていたが、実際は3000名ほどしか集まらなかった。このため、私たち卒業生についても応召を命じられた。毎日警察官が銀行に来て、志願するように迫った。それで、支店長(日本人)に事情を話して、身を隠すことにした」

写真3:トラック部隊に配属された郭さん(左から2人目)

 特別志願兵の受付締め切りは43年12月20日。郭さんは期限切れの翌21日に全州市に戻り弟の結婚式に出た。その後、勤務していた銀行の全州支店に寄って挨拶して裏門から出ようとしたところを警察官に捕まった。警察署に駆けつけた父親の説得で、郭さんは特別志願兵になることを承諾し釈放されたという。そして1944年1月20日、姫路の陸軍中部54部隊に入隊し物資や兵士を輸送する輜重隊(しちょうたい)の配属となった。

 「日本人の上官が良い人だった。大阪商科大(現大阪市立大学)を卒業したハチヤツネオ少尉。韓国から父親、妻、長男、妹が面会に来たことがあった。上官は私に10日間の外泊許可をくれた。さらに『宿代も馬鹿にならないだろう』と私の家族を、自分の家に泊まらせてくれた。差別をしない上官だった」

 東京大空襲の後、姫路から長野へ避難することになり、長野商業学校を兵舎に使った。そして、山奥の炭焼き小屋から木炭を市街地に運ぶ任務を行っていたが、そのまま終戦。故郷の全州市に戻った郭さんは、銀行に復職。定年まで勤め上げた後、鉄鋼会社の副社長、中央大学の同窓会役員などを経て、「一・二〇同志会」会長に就任。朝鮮人学徒兵の記憶を風化させてはならないと活動している。

元農耕勤務隊員の証言

 次に訪問したのは、同じくソウル市在住の黄敬□(馬+春)(ファンギョンチュン)さん(89)。日本の福岡県鞍手(くらて)郡で生まれ、小学校3年生まで過ごした。父親は炭鉱会社の労務係で、朝鮮半島に年に2、3回赴いては炭坑作業員を集めて日本に連れてくる仕事をしていた。そうした仕事の過程で、民族差別を強く感じた父親は、黄さんを韓国に帰国させ、現地の普通学校に通わせることにした。

 「母親や家族と別れて韓国に行くのが辛かった。ハングルが全く分からなかったので、日本では小学校3年生だったのに、1年生のクラスに入れられた。でも、ハングルがわかるようになると成績はいつも1番で6年生まで級長をやった」

 そして、1943年4月に中央大学法学部に入学。高等文官試験を目指して勉強に励んでいた。ところが、同年10月に学徒兵として志願を強要された。警察官とは会わないように逃げ隠れしていたが、結果的に1945年3月に召集令状が来た。

 「壮行会の時に、みんなが霧島昇の『誰か故郷を想わざる』を歌ってくれた。この歌は、士気が下がるからと歌うことを禁じられていたが、もう戦争に行くんだということで、警察官も誰も止めなかった」

写真4:学生のインタビューに答える黄さん(左)と秋山美月(法学部2年)

 1945年4月に、茨城県真壁(まかべ)町谷貝(やがい)村の第二農耕勤務隊に配属された。

 黄さんは農耕勤務隊員として田植え、木の伐採などの作業を行っていた。また日本語が堪能であったため、日本兵と朝鮮兵の意思疎通を図る通訳業務もこなしていた。しかし、日常的に行っていたのは、空襲から身を守るために、タコツボと呼ばれる1人用の塹壕を掘ることだった。

 「45年5月に東京方面で空襲があった時は、夜空が赤く染まっていた。翌日には地面に灰が積もり、その中には米軍のビラなども燃えずに残っていた」

 そして、8月15日に終戦を迎えるのだが、朝鮮人学徒たちには知らされなかった。

 「15日には、今日は何もしないでいいと言われ、日本兵だけが民家にラジオを聞きに行った。戻ってきても、何も話してくれなかった。その日の夕方から、地域で盆踊りがあったので、参加して踊った。しかし、不思議なことに灯火管制がなかった。17日になって兵舎のトイレで用を足していると、近所から大きなラジオの音声が聞こえてきた。すると『東久邇宮稔彦王が内閣総理大臣に任命された』と言っている。慌てて戻り上官に聞くと、『日本は負けた』と教えてくれた」

 その後、朝鮮人学徒たちは谷貝村から汽車で下関に向かった。途中、広島を通過し、原子爆弾の威力をまざまざと見せつけられたという。下関からは漁船をチャーターして命からがら釜山に渡り、帰還を果した。

 その後、進駐してきた米軍と知り合いになったことで、通訳、英語教員、米国通信社記者として活躍した。

中央大学の特別卒業証書を受け取って

写真5:金さん(右から2番目)から話を聞く学部生たち

 3番目に訪問したのは、光州市在住の金鍾旭(キムジョンウク)さん(92)。彼は朝鮮の普通学校、日本の帝国商業学校を経て、中央大学商科に入学。在学中に特別志願兵として徴集され入営した。1944年1月20日、名古屋の陸軍13部隊に配属され、輜重兵(しちょうへい)となった。

 「私は、兵士として働く中、上官に殴られ腰を負傷した。さらに、『お前のような奴は、前線に行かねばならない』と言われ、上海の浦東へ転属させられた。日本が負けて、1945年11月に光州になんとか帰還した。その後は中・高等学校で教師や校長を務めた。年を取ってから、上官による暴力で負傷した腰が痛んで苦しい」

 金さんの家には、中央大学が1998年に贈った「特別卒業証書」が大事に飾ってある。そこには、こう記してある。

「あなたは第2次世界大戦中 学業半ばにしてやむなく本学を離れざるを得なくなりましたが在学中の学業精励を賞し また善隣友好と平和への願いを込めて ここに特別卒業証書を贈呈します 一九九八年十二月二十九日 中央大学学長 外間寛」

写真6:中央大学が贈った特別卒業証書

 この特別卒業証書は、朝鮮人学徒119名に対して贈られたものだ。当時の外間寛学長は沖縄出身者であり、自らの戦争体験を踏まえ、「遅すぎた卒業式」であると式辞で述べている。

 金さんは、こう語る。

 「私は日本の中央大学商科に行って、会計士や高等文官試験を目指して勉強していた。なぜ、私の将来を壊し卒業もさせなかったのか。私は帰国後に高校の教師と校長をやって定年になった。その後に名誉を回復するというのは、遅すぎるよ」。

 その表情には、怒りとともに虚しさがにじんでいた。しかし、最後に、こう付け加えた。

 「大学の後輩たちが、こうして訪ねて来てくれたことは、初めてだ。これは、私にとっては喜びである。心から感謝したい」

 金さんは、学生たちの手を取って、笑った。

学生たちは何を学んだのか

 郭さんを取材した澤田は「日本兵は、朝鮮人学徒兵に対して極めて差別的であったと思っていたが、中には親切な日本人の上官もいたことに驚いた。戦時下においても、人間性を失わない人たちがいたことを知った」と語っている。

 また、黄さんを取材した秋山は「黄さんは、中央大学は私の唯一の学歴。これからもずっと中央大学は私の誇りだ。名誉ある白門健児だからね、と笑顔で話された。この言葉は、私の心に深く響いた」とまとめている。

 そして最後に、金さんを取材した野崎智也(総合政策学部3年)は「私の第2外国語は韓国語。今回取り組んだのは、貴重な戦争証言を記録しつないでいく作業。その2つが初めて融合し、自分の中に軸ができたような気がした。こういう有意義なことを、自分の仕事にしていきたいと思った」と締めくくっている。

(年齢、学年は、取材時におけるものです)

松野 良一(まつの・りょういち)/中央大学総合政策学部教授
専門分野 メディア論、ジャーナリズム論
1956年生まれ。九州大学卒業。筑波大学大学院修了。博士(総合政策)中央大学。朝日新聞社会部記者、TBSプロデューサーを経て、現職。研究テーマの1つが、メディア表現活動と能力開発の関係性について。著書に、『市民メディア論』(ナカニシヤ出版)、編著に、『証言で学ぶ「沖縄問題」 観光しか知らない学生のために』(中央大学出版部)、『映像制作で人間力を育てる』(田研出版)、訳書に『パブリック・アクセス・テレビ-米国の電子演説台』(中央大学出版部)などがある。また松野良一ゼミはこれまで、グッドデザイン賞、ポッドキャスティングアワード最優秀賞、「地方の時代」映像祭優秀賞、飛騨高山ドキュメンタリー映画祭大賞、「開発教育/国際理解教育コンクール」外務大臣賞、東京ビデオフェスティバル「筑紫哲也賞」など、多数の受賞実績を持つ。毎年、多くのゼミ生がマスコミ業界に就職する。