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野宮 大志郎

野宮 大志郎【略歴

立ち向かい、投企する個人を育てる

私の教育論

野宮 大志郎/中央大学文学部教授
専門分野 市民社会論、社会運動論、比較社会学

今日の大学をどう見るか

 日本中、どこの大学の学生を見ても、ひとつ思うことがある。個人化しすぎている、ということだ。自分のことが最大の関心であり、日常世界の中心である。生活は、個人を単位として作られる。競争すべき相手は隣に座る個人であり、守るべきは自分である。

 大学の3・4年になると就活が人生の中心となる。人目を引くESを書く、どこどこに受かる・落ちるが人生の最大の悩みとなる。「就職戦線」という戦場ではじめて顔を見る相手と交わり、戦う。その結果に、一喜一憂する。しかし、これはもう、学生にとっては手慣れたものなのかもしれない。その数年前に、同じ学生は「受験戦争」を経験しているのだから。

 大学生の就職なり受験なりを総称して「競争社会」とでも言うのだろうか。その競争社会が、一概に悪であるわけではなかろう。しかし、そうした現実を通って大学に入り、また大学を卒業する学生たちが、ドロンとした顔をしているのはいったいなぜだろうと、思う。努力して大学に入ったものの、数ヶ月で気力がなえる。就職活動で一喜一憂したのち、多くは一様に憂鬱な顔をして就職していく。

 私は、こうした学生に対して、常にある訴えをしている。あなた方の「私」の世界の外には、もっと別の世界があるのだということ、そして日本に住むあなた方から見れば、その別の世界はもっと困難で大変な世界なのだ、と。

グローバルな世界に巣食う問題

 私は社会学者として米国でトレーニングを受けた。社会学は、ある社会を捉えて、その社会のメカニズムやプロセスを考察する学問である。必然的に、社会の内側にむかって視線を放つことがその特徴となる。しかし私は、いつ頃からか、その社会の外で起こっている現象に目を向けるようになった。ちょうど「グローバル・ソシオロジー」なるものが芽吹いた時期と重なる。それに惹かれて、グローバルな世界で起こっている現象の一つ一つを摘んで解析していくうちに、何かが、多層性を帯びながら今までと異なる複雑なメカニズムで起こっていると感じるようになった。それらの学問的統合は純粋に研究の世界に属する事柄なのでここでは触れないが、それでも、社会学を学ぶ学生に伝えるべきだと考えることの多くはここで発見することが出来た。

 「358人=26億人」この等式の意味がわかるだろうか。昨今の日本では「格差」がキーワードとなっている。しかし、その「日本の格差」を述べる前に世界では、もっと厳しい現実がある。上述の等式の意味は、世界のお金持ち上位358人の所有する財産総額が世界の下層から数えて26億人の所有する財産総額とほぼ同額である、ということを意味する。これは1996年の数字からの計算である。26億人は、当時の地球人口全体の45%に当たる。現在はもっと厳しい格差が存在するはずだ。

 「最貧国」と呼ばれる国々ではその貧困の現実が突き刺さる。財を稼ぐにも売れる産品を生産できない。歳入の欠如と膨れ上がる先進国からの借金で、国家予算は不能に陥る。やっとのことで組む国家予算のその1/3は、返済に飛んで行く。しかしその返済は、先進国からの借金の返済ではなく、先進国からの借金の利子の返済に充てられるのである。そうした国家では、財政上の切り詰める項目は、医療、教育、文化である。学校は建たない、慢性的に医者がいない、あるいはきちんとした医療を提供できないなどは、当たり前の日常としてそこに展開する。

 地球環境に目を転じてみよう。キリバスやツバルなどいわゆる島しょ国では、自分たちが住まう国土がなくなる、という状態に直面している。現在の状態から海面が1メートル上昇すれば、国土の大部分が沈むのだ。これらの国々では「移住」を考えなければならない。たとえばツバルでは、若者が日本で漁師になるべくカツオの一本釣りの練習に励む。日本への移住が認められるかどうかも不明であるにもかかわらず、である。キリバスでは、大統領が「我々が住むための国土を売ってくれ」と隣の国と交渉する。

大学生の何を育てるべきか

 このように、日本で入試を突破し、就活に勤しむ学生とはまったくかけ離れた世界が、日本の外には存在する。これらの事実に対する対応の仕方は個々まちまちであろう。他所他国で起こっていること、現実の自分がいる環境とは余りにも異なることとして、これらを意識や思考範疇の外側に置く、という方法もある。しかし、私は、そうでない学生を育てたいと思っている。上述のような大きな苦悩を抱える見知らぬ人たちに対して、同感し、共感する感性を持った学生を育てたいと考えている。彼らも我ら日本人も、同じ人である。同じように、眠り、食べ、学ばなければならない。こうした困難を抱える人達は、自分たちのおこないが原因で、そうした苦難を引き受けたわけではなかろう。その同じ人という起点から発想して、他者が抱える苦悩を慮り、他者を助ける眼差しをもつ人間を育てたい。

 上のことを「他者への眼差し」と呼んでおこう。他者への眼差しを持つ学生を育てることが第一である。しかしそれだけでは苦悩する人間を救い、社会を変えることは出来ない。さらに、そうした学生が、「エージェンシー」の感覚を持つことが必要である。エージェンシーとは、行為の主体であり、変革の主体となることである。

 現在の日本では、大学に限らず、ほぼすべての教育機関で知識が偏重される。入試では、より正確な知識を持っているかどうかが試される。しかし、いくら上質かつ大量の知識を入手したところで、エージェントにはなれない。行動へのオリエンテーションが必要である。エージェンシーを持つ個人は、自分を世界へ投企する。自らが行為をおこない、それによって社会の変革を試みる。自分の行為が社会変革のための波紋の一つになると信じるコンピタンスを持つ。確かに、その投企は、世界の辺境での微々たる変化しかもたらさないかもしれない。しかし僅かであっても「何かをもたらした」と考えられる人間が、変革のエージェントである。

 「他者への眼差し」と「変革のエージェンシー」、これだけ述べれば、私の大学での教育概要は演繹できる。すべての人をさげずむことなく、また自分を卑下するわけでもなく、対等に接し、相手の声を聞き、相手に同感し、共感できる学生を育てること、次に、自分たちより厳しい環境の中で生きなければならない人びとのために役立とうという感覚を持つこと、さらには、そうした学生がエージェントとして自らを世界に投企するコンピタンシーを持ち巣立つことが私の理想とする教育である。

見果てぬ夢

 そんなことできるわけない、余りにも理想論すぎる、といった声が聞こえてきそうである。いや、よくわかる。白状すれば、こうした教育はなかなかうまく行かない。相も変わらずの試行錯誤である。ひとたび教室に入れば、寝る学生がいる。私の言うことに、半ば呆れ顔の学生が見える。その現実を見れば、上述のことは全くの楽観論かと思う。が、そう思う矢先に別の声が聞こえる。でも、こんな人が増えれば、世の中良くならないだろうか、と。

野宮 大志郎(のみや・だいしろう)/中央大学文学部教授
専門分野 市民社会論、社会運動論、比較社会学
兵庫県出身。ノースカロライナ大学チャペル・ヒル校社会学博士(Ph.D.)。
帰国後、帝京大学、北海道大学、上智大学を経て、中央大学へ。現在は、比較手法を用いて、グローバルに展開する市民社会活動を研究する。主著に『社会への<知>』(2005年、勁草書房、共編著)、『Reimagining Social Movements: From Collectives to Individuals』(2014年、Ashgate、共著)、『グローバル・ガバナンス』(2014年、法律文化社、共著)がある。個人のホームページ(建設中)URL=http://www.dainomiya.com。