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林 明子

林 明子 【略歴

ことばがいざなう世界-ドイツ語と日本語の観察を通して

林 明子/中央大学文学部教授
専門分野 日独対照言語学、談話分析

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 私たちは、自分の生活に必要なものを、そうでないものより細かく分類する。関心をよせるもの、あるいは重要なものに対しては、より敏感であるとも言えよう。

語の分類の細かさの違い

 ドイツ語で「馬」というとき、属名はPferdであるが、雄馬、雌馬、子馬のそれぞれに Hengst,Stute,Fohlen と、別の呼び方が用いられる。更に、小型の馬は Pony、白馬は Schimmel と、その分類は大変細かい。ドイツの大学で1年生を対象とした意味論の授業で、しばしば取り上げられる例である。では、日本語では区別ができないかというと、そういうわけではない。但し「雄~、雌~、子~、白~、小型の~」とわざわざ説明を加えなければならない。逆に、日本語は「稲」「米」「ご飯」と言い分けるが、ドイツ語では栽培するのも炊くのもすべてReisである。

文法レベルでの違い、そして方言差

 文法のレベルでも事象のとらえ方は一様でなく、方言によっても違いがある。たとえば、バスが停留所に近づいて来るのに気づいて「バスが来ているから、急ごう」と停留所に向かって走る場合にも、すでに「停留所にバスが来ている」とバスが到着していることを意味する場合にも、表現上、どちらも「来ている」と言う方言と、「バスが来よる」「バスが来とる」などと言い分ける方言がある。ドイツ語でも、過去の出来事を述べるにあたり、北ドイツでは過去形を、南ドイツでは完了形を好んで使うと言われる。

音声レベルの違いが与える影響

 私たちは、母語にとって重要な違いに敏感である。それ以外のものは、残念ながら自動的に切り捨てられる運命にある。有名な例としてrとlがある。2つの音は日本語の中で意味を区別しないので(ラ行子音を[l]で歌う歌手もいる)、ドイツ語の中では大きな違いでも、日本語にとってはどうでもよいとも言える。一方、ある音が長音か単音かは重要で、「主菜」と「秀才」では大違い。ドイツ語にも長音はあるが、日本語のように体系的に意味を区別するのに用いられないので、日本語を学ぶドイツ語母語話者の多くは、聴き分けたり発音し分けたりするのに苦労する。

談話レベルのストラテジー

 日常生活の中で、声の上げ下げや強弱、切り方、伸ばし方など(プロソディという)を使い分けることで、話者の態度を伝えることができる。たとえば、「どうもお手数をおかけしました。」をどう言うか考えてみよう。恐縮している場合、儀礼的に口にする場合、皮肉の場合など、同じ文にさまざまな情緒的意味を付け加えることができる。そうした「言い方」にも言語ごとの習慣があり、プロソディの助けを借りて相手にシグナルを送る。したがって、相手が、そのシグナルをとらえられなかったり、ましてや、上がっているのか下がっているのか、長いのか短いのかという物理的な違いすら同じようには聞いていなかったりしたら、誤解が生じるのも無理はない。

 上げたり下げたり、伸ばしたり言い切ったりには、男女差も見られる。最近、「若いひとたちは『女性ことば』(「~わ」「~のよ」など)を使わなくなってきた。」と言われるが、プロソディのレベルでは男女差が観察される。日本語を母語とする19~29歳の男女の協力を得て調査を行い、理由を述べたり事情を説明したりする場面を取り上げて分析してみた。男女とも「授業だから」など同じ表現を用いていても、男性は下げて言い切るのに対して、女性は「授業だから~」と伸ばしたり、最後を下げないで話し終えたりする傾向がみられ、その差は統計的に有意であった(林・西沼・谷部、2007年)。

 いろいろな話し方は会話の中でストラテジーとして用いることができるし、実際、無意識のうちに私たちはそれを実践している。友人に200円借りるのと、200,000円立て替えてもらうのでは、依頼の仕方も異なってくる。表現も丁寧になるし、理由を詳しく説明したり、迷惑をかけることを詫びたりすることもあるだろう。恐縮している様子や、いかにも申し訳なさそうな様子、感謝している様子などは、プロソディにも反映される。注意深く表現を選んだつもりでも、「言い方が気に入らない、丁寧さが不十分だ」などと拒絶される場合もある。また、同じ依頼の場面でも、日本語かドイツ語かで、会話のどの部分でどのくらい詳しく理由を説明するか、断られそうになったらどう対応するかなど、言語ごとにシグナルの出し方、受け止め方もさまざまである。

言語観察が繰り広げる世界

 私たちは、自分の見方・聴き方、つまり「自分の持っている尺度」が当たり前だと思ってしまいがちである。それゆえ、異なる言語、異なる文化が接触すると、摩擦が生じるのは当然と言えば当然である。しかしながら、そこで自分とは違う新しい見方、とらえ方を切り捨ててしまうのは、いかにも残念だ。限界がある中でもその世界を疑似体験してみることには価値がある。言語は私たちにさまざまな可能性を与えてくれる。

林 明子(はやし・あきこ)/中央大学文学部教授
専門分野 日独対照言語学、談話分析
東京都出身。東京学芸大学教育学部(国語選修)卒業。筑波大学文芸言語研究科で文学修士(言語学)取得後、渡独。トリア大学言語文学研究科博士課程(ドイツ語学専攻)修了、Dr. phil.。東京学芸大学専任講師・助教授を経て2005年より現職。
主な著書に、Japanische Demonstrativa und ihre deutschen Entsprechungen. WVT Wissenschaftlicher Verlag, Trier (1993)、『話しことば研究をめぐる4つの問い』日本独文学会(2009、共著)、『文法記述の諸相』中央大学出版部(2011、共著)など。本文で言及した論文は、林明子・西沼行博・谷部弘子「若年層男女にみる発話末の表現形式と韻律 ‐説明場面における普通体会話の場合‐」『社会言語科学』9-2、2007:30-40。