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武石 智香子

武石 智香子 【略歴

異文明理解を引き出す仕掛け
~学生引率体験より~

武石 智香子/中央大学商学部教授
専門分野 知識社会学

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文化・文明差と、それを引き出す「仕掛け」

 ここ数年ボストンの大学に学生を引率し、学生たちが討論を通じて異文化を体験することを目指してきた。毎回、討論が深まってくると、その交流は異文明体験と呼べるものとなってきて、私にも新鮮な驚きを与えてくれる。そこで、ここ数年はなるべく異文明間の理解を引き出そうと努力をしている。

 私たちは、SNSやテレビ会議等を通じて一瞬で他国の人とつながることができる。実質的な国際語である英語を操れば、あたかもグローバル社会はひとつであるような気がしてくる。特に科学者の世界では、専門用語と専門分野の枠組みさえ把握すれば、学問上不自由することはない。だからこそ、改めて違いに気付かされることが新鮮な驚きである。

 30年ほど前のことだろうか。私がまだ若かった頃、日本人科学者たちがこんなことを言っているのを聞いた。「どうも、一神教だけはわからない。どんなに西洋を理解しようとしても、根本的な部分がわからない。」自然科学の分野で世界的に活躍した科学者でも、深い人間的理解のレベルではそんな実感を持っていたということを、今更ながら思い出す。

 西洋文明の特徴を「一神教」という一言でまとめてよいのかについては、ここでは保留とする。ただ言えるのは、この「根本的なわからなさ」の源こそ、「文明」(civilization)の違いではないかということである。現代世界では、「文化」(culture)の単位は主にネイション(「国民」)となっているため、私たちは当たり前のように「日本的」、「アメリカ的」、といった表現を使っている。しかし、たとえばフランスとドイツの「文化」の根っこには、ある程度共通の認識・知識・思考スタイル、すなわち、われわれが「西洋」と呼ぶ大きな枠組みがあるとすると、それがここでいう「文明」である。

 私たち日本人は、たとえばアメリカのドラマを見て英語がわかれば、わかったように感じてしまう。しかしその実、同じドラマを見ても、同じ小説を読んでも、もしかすると、日本人は当然のように日本人の枠組みでアメリカのドラマを理解しているのかもしれない。自分なりの理解でわかったように感じている学生たちから異文明体験の驚きを引き出すには、それなりの仕掛けが要る。

 私がボストン大学やハーバード大学、ブランダイズ大学に学生を引率してプレゼンと討論をするのは、今年で5回目である。その過程で私が観察してきたのは主にアメリカ人と日本人、しかも日米他学生が累計およそ60~70名ずつに過ぎないのであるが、その限られた経験の中で、文化・文明の違いを引き出すのに有効だった仕掛けを、以下に3つほど紹介してみたい。

仕掛け1:語の比較…意味、成り立ち、身体への影響

 まず第1は、語の意味の違い、特に語源および語の成り立ち、心身に及ぼす影響を比較することである。たとえば、「就職活動において何が重視されるのか?」と日本の学生が質問をする。それに対してアメリカの学生は、大事なのは、”how well you can get along with other people”だと答える。そこで日本人の学生たちは、「就活で『協調性』をアピールすることが大事なら、日本と同じ。」となるが、そこで終っては異文化理解にならない。そもそも、「協調性」とは何か?語の成り立ちを見るためには、日本語の場合、「協調」の漢字を黒板に書いて、ひとつひとつの字を説明するのが有効である。漢和辞典によると、「協」=一致させる、合わせる、従う、「調」=ほどよくする、やわらぐ、調子を合わせる、平均をとる…。こうしてみると、アメリカ人の「人と上手くやる」ための積極的言動とはかなり違った内実であることが浮かび上がってくる。語源を調べることも大変有効であり、たとえば「恋愛」という語については明治以前の日本には概念自体が存在しなかったことなど、語の組成上・発生上の成り立ちを考えることは、日本人の意識の歴史的変化に気づくことにもつながってくる。

 語に対する感情的・身体的反応を比較するという方法では、たとえば、アメリカ人にfreedom、日本人に「自由」に対する身体的な反応を聞く。すると、アメリカ人にその言葉がお腹の底から湧き上がる絶対的な感情を引き起こすのに対し、日本人学生には「自由」とは程度の問題でしかなかったりする。

仕掛け2:「ロジック」の比較…特に象徴と実体の対応について

 第2に、象徴とそれが表そうとする実体を1対1対応で合致したものとして考えるのか、実体は実体、象徴は象徴として分けて認識するのかを比較する方法がある。たとえばある中国人のエピソードを日本人に変えてみよう。アメリカ人が日本人に名前を聞き、日本人は、「自分をティムと呼んでくれ。」と答えた。後に、その日本人の名がティムではなく「トモユキ」だったと知ってアメリカ人が大変困惑したというエピソードがあるとする。日本人にとっては、特に違和感のあるエピソードではない。「トモユキ」は発音しにくいだろうし、省略したTomは、知り合いにいる。自分は自分で実体に変わりはないのだから、呼び名はどうでも、たとえば相手に発音しやすい「ティム」と呼んでくれて構わないのである。しかし、名称と物事の1対1対応の結びつきが強い認識法では、トモユキはトモユキであって、ティムではない。アリストテレス的論理が万国共通なのは、基本的にシニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)が1対1対応に出来ているからである。しかし、人間的・社会的現実において、トモユキがトモユキであってティムと呼ぶことと両立しないことが西洋的ロジックであるとすると、それは日本人には非合理的に感じられる。呼び名はあくまでも記号表現であり、記号内容とは別であるからである。

 更に、日本人が本音と建前を両方同時に受け容れられる理由もこの辺にあるのかもしれない。Aさんの本当の気持ちは理解できる。しかし、そう言わなければならない状況も理解できる。Aさんの気持ちの実体と、Aさんから発せられる言葉は、矛盾するようでもそれぞれに理解するのである。また、日本人にとって多くの物事が白黒つかないグレーゾーンに属するのも、実体を言葉と分けて考える習性と関係があるのかもしれない。人間的・社会的実体には、白に分類される言葉の要素も、黒に分類される言葉の要素も、多かれ少なかれ含まれていると考えるからだ。この認識法を、私は「事々無碍」的な物の見方と呼んできた。大抵のものにはどの要素も入っている、という見方である。「事々無碍」的な見方のために日本人は、弱いもの、悪いもの、醜いものを、他者や環境のなかだけではなく、自らの中にも容易に認めるのだ。

仕掛け3:トロープの比較…物語のお決まりの収め方

 第3は、トロープ(trope)の比較という方法である。トロープとは、どう話を展開して何をもって完結とするか、というお話の型のことである。今年度、われわれは朝井リョウの『何者』という小説を、主人公の「気づき」の物語としてボストン大学で紹介したが、誰かが自らの弱点に気づいたとして、なぜそれで物語のエンディングとして成り立つのか?という疑問が呈され大いに議論となった。考えてみれば、日本の童話のトロープにはこういうものが多い。良いおじいさん(おばあさん)と悪いおじいさん(おばあさん)がいて、悪いことをしたおじいさん(おばあさん)は痛い目にあって自らの過ちに気づかされ、「めでたし、めでたし。」なのである。西洋では人間による環境の操作が大事だ、とは日本では言い古された見方であるが、対して日本では、極めて個人的なレベルでの心の調整で物語の完結となりうるのだ。

 トロープには社会によって型に違いがあるばかりではなく、「トロープ共有度の低い社会」という概念も成り立つかもしれない。個人が相手に認められているのか、なめられているのか、獲得か損失か、勝ちか負けか、といった、動物にも明らかであろうレベル、すなわち「象徴」の介在しないレベルで行動するときには、トロープの共有は薄いだろう。そこには文化も文明もなく、人間は非社会的になるのではないか。トロープのない世界では、「悪い者」と「弱い者」は一致し、人々は「強い者」に取り入るのみとなる。「弱き」を助け、「悪事」と闘えるのは、そのようなトロープがあってこそ、であろう。東日本大震災のときに東北人が見せた向社会的な行動も、ある種のトロープ故に可能だったのだろうか。今年もボストン引率をきっかけに、そんなことを考えている。

武石 智香子(たけいし・ちかこ)/中央大学商学部教授
専門分野 知識社会学
東京都出身。1963年生まれ。1985年 早稲田大学第一文学部卒業(心理学専攻)。
1985年より、(株)三菱総合研究所(産業経済部・国際部)。
1988年より留学、1999年 社会学博士(ハーバード大学)。
中央大学商学部専任講師を経て、2013年度より現職。
共著に、The Ideals of Joseph Ben-David: The Scientist’s Role and Centers of Learning Revisited(New Brunswick, NJ: Transaction Publishers, 2012)がある。