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本田 貴久

本田 貴久【略歴

それでも読書をすすめる理由

本田 貴久/中央大学経済学部准教授
専門分野 フランス文学

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読書離れ――大学生の4割は本を読まない!?

 昨年12月に放映されたNHKの『クローズアップ現代』によると、一か月に一冊も本を読まない人が47.5%の割合を占め(文化庁調査)、また大学生の4割が本を読まないという衝撃的な(?)調査結果があったそうだ。インターネットが普及して20年ほどになるが、膨大な情報の要点だけならばほとんど無料でアクセスできるこの媒体への依存が、本を凌駕するようになったのだろう。ネットでは著作権の切れた作品の一部は読むことができるし、論文検索も可能だ。個人的にはとても便利になったと思う。

 ただし、本をはじめとする活字媒体でしか読めないコンテンツはいまだ膨大にあるという事実は重要だ。この勘所を押さえていれば、読書量の減少は他の媒体から得る情報量に置き換わったと考えればよいだけで、ことさら嘆く必要はないのではないか。

本を読む時間はむだなのか?

 しかし文学においては、作品なり批評なり本を読むプロセス自体が重視される。この面での学生の読書離れは、文学という営みの根幹を揺るがすはるかに厄介な問題を含んでいる。なぜなら、丸ごと読むにはえらく時間がかかるのが本だからだ。時間に見合うものを、ほかでもない読書からえられるのだろうか? 効率性や採算性、結果のみが重視されるのだとすれば、読書は回り道を余儀なくされる(したがってむだの多い)行為だとみなされてしまうだろう。長い読書は避けて、本質的な内容が抽出された要約なりプレゼン資料を手に入れさえすればよいというわけだ。

一を聞いて十を知ることはできるのか?

 時間を短縮できる要約がとても便利なことに異論はない。しかし、一(要約)を聞いて十を知るという、「察しのいい人」のことを指すことわざには警戒したいのだ。むしろ大切なのは、十なくして一は立たないということを知ることだ。要約は肉をそぎ落とした骨組みでしかない。だからこそ必要なのは、要約に接したさいに、それを肉付けしたいという欲望であり、それを実現する意思である。このとき、想像力に劣らず、実体験の裏打ちや訓練が必要である。具体的な体験が触媒となって要約に意味を与えてくれることもあるのだ。

 ところで読書は、ときに「実」体験となるというのがぼくの持論だ。つまり、言葉を理解し、その理解を言葉で他者に伝え、共通認識をえるところまで含めればそれは実体験になるということだ。簡単なことではない。外国語で同じことをしようとすれば、とたんに「理解」とはどういうことか、「伝達」とはどういうことか、相手はなにをもって「了解」してくれるのか、これらをめぐってだれもが頭を悩ますことだと思う。母国語であっても同じである。そして、このもどかしさと向き合う体験をする場のひとつに大学がある。

文学は割に合うのか?

 最近、文学をはじめとする人文学に対する風当たりが強いような気がしてならない。国も、社会のニーズにあった職業教育を大学に期待している反面、人文学にはそっけない。ただちに就職には直結しない学問はそれが理由で縮小を余儀なくされるのだろうか。このような根源的な問題を意識したのは、フランス文学研究の泰斗であるアントワーヌ・コンパニョン氏による、2012年日本フランス語フランス文学会での「文学は割に合う」という講演を聞いたときである※1。フランスでも人文学離れという現象が見られるなかで、氏が強調したのは、文学とは「他者を知り、この世界を理解する」ことであった。のみならず、医療の現場では、患者に自分の物語のように語ってもらうことで臨床診療を補強する試みがはじまっており、また法律家に物語構築能力を要請する試みがはじまっているという事例を紹介した。文学は具体的に役立つものとして各分野で必要とされているのだ。

文学はコミュニケーションの方法として有用である

 こうした実践的な領域で注目を浴びている「物語構築の技術」が前提としているのはコミュニケーションである。その重要性はかつてなく高まっているが、コミュニケーションを、文字、単語、文、文章(物語)のレベルで、つまり言語という切り口からあらためて分析対象とするのが広い意味での文学研究だろう。もちろん、ジェスチャーやイメージといった視覚的要素がコミュニケーションを強力に後押ししてくれるので、ここに力点が置かれるのは当然ではあるが、言葉なくてはそもそも人間としてのコミュニケーションは成立しない。

 伝えたい内容がどんなに豊かで意味があっても、伝え方を知らなければ、もどかしさはつのるいっぽうだ。このもどかしさをめぐって、文学は、はるか古代から「修辞学(レトリック)」の名の下に表現方法自体を研究してきた。レトリックのおかげで過去のさまざまな成果が伝わってきているという事実は強調してもしすぎることはない。「物語構築の技術」もこのレトリックの再評価にほかならない。

まとめ

 読書は、内容を手に入れるだけの貧しい経験ではない。また、作品の芸術性に熱狂するという特異な体験だけを醍醐味とするものでもない。読書は、内容がまさに作られていくプロセスを体験することだ。そのプロセスを、高位の次元から客観的に分析するのが文学研究の仕事のひとつだと考えたい。つまり、内容の作られ方を知ることで、内容の作り方というスキルをマスターすることだと。これは文学研究にかぎらず、どんな人にも通用するスキルだと思う。ぼくが“それでも読書をすすめたい理由”はこれに尽きる。繰り返すが、大学ではこのような体験をする場がまだ残されている。

※1^ 講演原稿「文学は割に合う」(中地義和訳)が、文芸誌『群像』(2012年9月号)に掲載されているので一読をすすめたい。

本田 貴久(ほんだ・たかひさ)/中央大学経済学部准教授
専門分野 フランス文学
神奈川県出身。東京大学文学部卒業。ジュネーブ大学、パリ第四大学に留学。文学博士(東京大学)。東京大学大学院人文社会系研究科助教を経て2012年より現職。研究対象は両大戦間期のフランスにおける文学と社会の関わり。共訳書にフランソワ・キュセ『フレンチ・セオリー』(NTT出版)、ジャン=ピエール・デュピュイ『ありえないことが現実になるとき――賢明な破局論にむけて』(筑摩書房)、『フランス民話集III』(中央大学出版)がある。