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橋本 恭 【略歴

「○○は」は、英語でも主語ですか?

橋本 恭/中央大学附属横浜中学校・高等学校教諭
専門分野 語彙意味論、第二言語習得、文法史

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 高校生が書いた数百人分の英作文の添削を以前に頼まれたことがある。どれも将来の夢を高校生らしい視点で語っていて楽しく読ませていただいたのだが、一方で次のような印象的な誤りにも数多く出合った。

Do volunteer like very much.
America absolute will go.

 これらの英文は、それぞれ文脈から「ボランティアをするのが大好きだ」「アメリカは絶対に行く」というつもりで書いたものであろう。英語は「何が/誰が」の次に「どうする/どうだ」を言うのだから、これでよいと思ったのではないだろうか。そう言えば、以前の勤務校で、受け持ちではない中学生からこんな質問を受けたことがあった。「I want to drink water.って「私は水が飲みたい」って訳したら、主語が二つになっちゃうじゃないですか。英語の方は主語が一つなんだから「私は水を飲みたい」の方がいいですか。」

 このように、「○○が」や「○○は」がつけば主語で、英語はそれで言い始めればどうにかなるという、やや願望めいた思い込みのようなものを持っている人は少なくない。それできちんとした英文ができあがることもあるが、冒頭の作文はその思い込みが生み出したものでもある。私たちは、すでに知っていることや身につけたことを利用して未知のことを学ぼうとする傾向をもっている。それで一度ならず何度かうまくいった経験が繰り返されると、その傾向は強化される。日本語と英語とでは、語順にはじまってさまざまな点で言語間の距離は小さいとは言い難いし、誰もがそのことはよくわかっているはずなのに、日本語話者として無意識のうちに英語学習に日本語の特性や日本語についての知識を持ち込んでしまう。外国語学習におけるこのような傾向は日本語話者にかぎられたことではなく、スペイン語話者でもフランス語話者でもそれぞれ特有の誤り方をすることが報告されている。また、かなり学習の程度が高い段階でも起こることがあるらしく、英文学を専門とする日本人大学教授が自らの専攻分野を尋ねられて、“I’m Shakespeare.”と答えたというエピソードを何かで読んだことがある。この教授の場合は、すぐに自分で誤りにお気づきになったのではないかと察するが、冒頭に紹介したような英語を堂々と書いている高校生の場合には、自分で誤りに気づくのは難しそうだ。母語干渉などと呼ばれるこのような現象は、起こるべくして起こるものではあるが、多少でも抑えられればそれに越したことはない。日本人がよくやってしまう英語の誤りにもさまざまなものがあるが、冒頭にあるような主語選択の誤りだけでもどうにかならないものだろうか。主語と述語動詞をきちんと組み合わせられるだけでも、英語として格段に通じやすくなるはずだ。

 主語を表す「○○が」「○○は」と、主語ではない「○○が」「○○は」を形式的に同一視し、さらに英語にそれを単純に対応させてしまうという傾向は、残念ながら学校で生まれていると言ってよいだろう。文法の学習は、小学校から始まる。小学1年では、日本語の文は「なにがどうする。」「なにはどんなだ。」という形になっていることが例とともに示され、小学2年になると、この「なにが」「なには」を主語と呼んで、「どうする」「どんなだ」は述語と呼ぶのだと教わる。かなり多くの子どもたちがこの段階で、「○○が」「○○は」が主語、主語は「○○が」「○○は」と覚えこむことになるだろう。その後中学に入学すると、文の中で「何が」「誰が」にあたる文節を主語、「どうする」「どんなだ」「何だ」「ある」「いる」「ない」にあたる文節を述語、これら二つの文節の関係を「主語と述語の関係」であることを改めて学習する。折から英語の学習が本格化し、英語は「○○は」で文が始まって、そのすぐ後には「どうする」「どんなだ」が続くことを覚える。このとき、日本語も英語も主語と言えば「○○は」なのだという揺るぎないと言ってよいほどの思い込みが生まれる。実際に、中高生に主語とは何かと問うてみると、かなり多くの生徒が「○○は」とか「○○が」が付けられた語句であると答えるし、英文を和訳するとなると主語には「○○は」を付けたがり、主語以外のものには「○○は」をつけるのを避けようとする。

 このような単純な一般化による誤りを減らすのに、英語という教科の中で「○○が」「○○は」を単純に英語でも主語にしてしまうことがないように、言語材料の提示順序や教育法を工夫することは当然必要だ。一方で、国語教科書が準拠する学校文法の枠組みや記述方法にも改善の余地があると思う。現在の学校文法の枠組みは、1947年発行の中等学校教科書『中等文法 口語』と『中等文法 文語』を概ね引き継いでいる。教科書の記述の仕方も同様で、まず例を示してそこから形式化した規範や定義を提示する場合が多い。主語の場合、まず「犬が走る」とか「空は青い」のような例がいくつか示され、このような例における「何が(は)」「誰が(は)」が主語で、「どうする」「どんなだ」は述語であることが提示される。このような[例示→形式化]という提示方法は一見すると分かりやすいと感じるが、誤った一般化も招きやすい。そのような誤解を防ぐために、どの教科書も「水が飲みたい」の「水が」は主語ではない旨を注記しているが、残念なことに主語ではなくて何であるのかには踏み込むことがない。また、これは枠組みに関わる大きな問題であるが、学校文法では「○○が」は格助詞、「○○は」は副助詞であり、助詞の種類が違えば文法的な働きも違うとしながらも、「犬がかわいい」の「犬が」も「犬はかわいい」の「犬は」も同じように主語としてしまうという矛盾を抱えている。

 学校文法の枠組みが固まったのは1930年代から1940年代にかけての時期である。これ以降の日本語学は、一つの定説に収束しているわけではないが、「○○が」と「○○は」に関する新たな知見を積み重ね、進展を続けている。外国人に対する日本語教育の分野でも、外国語との対照や教育実践を反映した文法構築が行われている。学校文法にもそのような知見や視点を取り入れることは、生徒が日本語を相対化し、日本語に対する理解と洞察を深めることにつながるであろう。日本語の「○○は」と英語の主語を単純に結びつけてしまう生徒も減っていくかもしれない。冒頭の高校生のみなさんにも、ぜひ正しい主語選択の視点を身に付けてもらって、夢を実現していただきたい。

橋本 恭(はしもと・たかし)/中央大学附属横浜中学校・高等学校教諭
専門分野 語彙意味論、第二言語習得、文法史
1963年北海道生まれ。都内私立中高勤務を経て、2010年より中央大学附属横浜中学校・高等学校教諭。
著書 『総合英語One』(共著,アルク,2014年)ほか。