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舟木 律子

舟木 律子【略歴

一大学生が中南米政治研究者となる過程でのできごとについて

舟木 律子/中央大学商学部准教授
専門分野 比較政治学、ラテンアメリカ地域研究

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 私は商学部でスペイン語を教えている教員です。専門は政治学で、中南米を研究対象地域としています。今回は、私が今の職業に就くきっかけになったかもしれない大学生の頃の経験について、中南米よもやま話もまじえながら、いくつかお話したいと思います。

1.将来のことを漠然としか考えていなかった大学入学当初:急増していた日系移民

 私の出身は愛知県の瀬戸市というところです。大学受験のときに考えたのは、ただ漠然と国際的な仕事に就けそうなこと、でした。なので、地元から通える外国語学部を何校か受験して、第一希望だった日本語教員を養成するための学科は落ちたのですが、スペイン語とフランス語の学科に受かり、学費が安かったスペイン学科に行くことにしました。そんな成り行き任せなところもあったものですから、入学した後になって初めてスペイン語圏の広さや多様性、地元にも中南米から働きに来ている人たちがたくさんいることに気付いたような有様でした。

 私が大学生になった一九九〇年代後半の時期、日本には中南米から日系の人々二七万人以上が移り住んで来ていました。一九九〇年に入管法が改正され、日系三世までとその配偶者らの定住資格が認められるようになったためです。法改正当時、日本経済はバブル景気の終盤にあたり、改正には日本の人手不足を補完するねらいもありました。また中南米の側でも、一九八〇年代に入って多くの国が「失われた一〇年」と呼ばれる未曾有の経済危機を経験し、各国が構造調整を進める中で、失業問題が悪化していた時期でした。ちょうど最近のギリシャのような状況が、多くの中南米諸国全体でおこり、各国政府は、国民の激しい抵抗をなんとか抑えつけながら、国際金融機関の指示に従う道を選びました。それによって、中南米諸国では、国内での生活に見切りをつけた人々が、日本だけでなくアメリカやスペインへと大量に移動していくことになりました。

 人を送り出す側と受け入れる側の両方に強い要因がある状況において、法改正が行われ、日系人移民の数はそれまでのおよそ三倍以上に増加しました。彼らは主に自動車産業、電気電子部品組み立てなど製造業や建設作業の現場で働くため、愛知県の豊田市や豊橋市、静岡県の浜松市などをはじめとする都市に集住しながら、日本の経済発展を支える存在となります。この当時、外国人労働者を増やし活用するため、企業は派遣業者を挟んで効率よく彼らを就労させることに成功しましたが、その一方で労働者の家族に対して、自治体や地域コミュニティの受け入れ体制はまだ整っていませんでした。NHKが、ある人材派遣業者に対して行った匿名のインタビューを見たことがありますが、そこで業者が語っていたのは、外国人と日本人を接触させないように勤務時間を分けることで、外国人労働者が雇用状況に関する情報を得たりしないよう留意し、雇用者側にとって都合のよい労働力としておくことが重要であるといった趣旨のことや、企業の要請に応じて柔軟に労働者数を調整できる派遣業者が生き残っていく、といった趣旨のことでした。外国人移民の親世代がこのような状況におかれ、不安定な条件で昼夜を問わず働く一方で、その子どもの世代は地元の公立学校になじめず、行き場を失うことが往々にしてありました。愛知県の小牧市で一四歳のブラジル人少年が、日本人の少年グループにリンチされて死亡する事件が起きたのも、ちょうどこの頃です。

2.はじめてのアミーゴスはペルー人

 さて、そんな時期になんとなくスペイン学科に入った私は、とにかくまずはスペイン語を勉強することになりました。すると地元の駅などでときどき見かける外国の人たちが話している言葉が、少しずつ耳に入ってくるようになってきました。一度思い切って話しかけたこともあり、すぐに大歓迎され、お宅に招いてもらったこともあります。自分から話しかけておいて何ですが、そのオープンさは、ひょっとしてどこかに連れていかれてしまうのではと不安を感じる程でした。それでも習ったばかりのスペイン語を試してみたいという下心もあり、知り合ったその日か、次の日には、お宅にまで押しかけてしまいました。その人たちはペルーから来ている家族で、見た目は日系人というより完全にペルー人、日本語も片言だったように思います。お宅では、吉本新喜劇のスペイン語版のようなコテコテのコメディ番組のビデオを見せてもらいました。その登場人物には、着流し姿に刀をさしたフジモリ大統領役の人がいて、いかにも真面目で、サムライのような人物として滑稽に演じられていました。ペルー人がワイワイやっていると、いきなり刀を振りかざして場を白けさせるようなキャラです。ペルーでは当時日系二世のアルベルト・フジモリが大統領でした。一九九六年一二月に在ペルー日本大使公邸人質事件が起こりましたが、この事件は日本でも大々的に報道されたので、その時のことを覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。彼は一九九〇年の選挙で当選して以来、一九九二年の自主クーデターによって大統領権限を強化し、結局二〇〇〇年に訪問中の日本で突如亡命を宣言するまでの一〇年間政権を握りました。経済の立て直しや、テロ対策などの政策を強行に実施していく中で、強権的な傾向を強めていったフジモリ政権に対して、「笑い」を使って批判するというスタイルがそこにはあったように思います。

3.スペインとメキシコへの旅から

 さて、大学生の特権のひとつに、長い休みがあります。私は学期中にアルバイトでお金を貯めて、長期の休みには、外国に行くことを大きな楽しみにしていました。大学生になってはじめて行った外国は実は中国なのですが、それからスペインとメキシコにも旅行に行きました。スペインでは、バルセロナのサグラダ・ファミリア教会やグエル公園、バレンシアの火祭りを見たり、アンダルシア地方を周って、白壁の村や、シェリー酒の産地、アルハンブラ宮殿などを訪れました。スペインでは、安くておいしい地ワインと種類豊富な生ハムやオリーブが必ずあり、加えて各地方特有の料理を堪能することができた短期滞在となり、ただただ楽しい思い出となりました。

 一方メキシコでは、首都のメシキコシティで主要な観光スポットを巡った他、近郊のクエルナバカという穏やかな常春の町や、タスコという、かつて銀の採掘で栄えた町にも足を伸ばしました。この国では、スペイン植民地時代以前から存在したアステカやマヤ文明の遺跡や、植民地時代に建てられた数々の歴史的建造物を見ることができました。食事情に関して言えば、本場のタコスは確かにおいしかったのですが、スペインに比べると、やや慎重にメニューを選ぶ必要があったように記憶しています。ただ、それよりも大学生の頃の私の印象に強く残ったのが、観光地などでたくさん見かけた物乞いの子どもや老人の姿でした。先住民系の人が多く、祖先の遺産が大切に保管され展示されているその建物のすぐ外で、その末裔の子どもたちが貧しい身なりで外国人観光客に手を差し出して小銭をねだっている情景がそこにはありました。

 スペインとメキシコの二カ国を旅行したときのことを踏まえて、その後学部での演習科目を決める際に、中南米の社会事情に関するゼミを選択することにしました。今思えば、スペインを対象地域にしていれば、現地調査の度にまたあのすばらしい食文化を堪能できたかもしれない、という惜しい気持ちも感じるのですが、やはり当時の私には、メキシコの現状についてより深く知りたいという純粋な気持ちの方が勝っていました。

4.メキシコに留学して

 その後学部四年生の夏からメキシコに一年間留学する機会も得ました。留学先ではソーシャルワーカー養成学科に入り、メキシコ人の学生達と一緒に学びました。それでわかったのですが、メキシコには多様な社会的弱者支援が十分ではないにせよ既に存在し、公的機関から民間の団体も含めて、懸命に活動している人たちがいました。それでもなお問題の解決が難しい背景には、そうした支援、特に公的支援が政治利用によって歪められてきたという事実です。たとえば選挙で政府与党に投票したかどうかが、支援対象地域のインフォーマルな選定基準になるというような恣意的運用が横行してきたということがありました。またそれ以前に、そもそも富の分配が根本的に偏り過ぎているという問題もありました。イーストンという政治学者によれば、政治は「社会における諸価値の権威的配分」のことを指します。まさにこの意味において、政治がうまく機能してこなかったために、現状のような格差社会が温存されてきたのではないだろうか、とメキシコでの生活を通して思うようになりました。

 メキシコは一九世紀末にスペインから独立し、個人的な独裁政治の時代を経て、二〇世紀にメキシコ革命と呼ばれる民族主義的な改革運動の時代を経験しました。この時期に、国家中心型の開発体制が整えられ、その体制を維持すべく、都市中間層や労働者層、農民層など様々な社会層が上から組織化され、運動を率いた「制度的革命党(国民革命党から改称)」に組み入れられます。この政党が、その後メキシコの一党支配政党として二〇〇〇年まで、七一年間にわたり政権を担いました。この制度的革命党政権の下で、コーポラティズムと呼ばれる、同時代の中南米政治で典型的に見られた利害調整のしくみによって、メキシコの代表制民主主義の制度は事実上形骸化していたのです。ただし、この体制は、八〇年代の経済危機とその後の構造調整を進める中で崩壊していきます。その後二〇〇〇年代に入ると、メキシコではそれまで最大野党であった中道右派政党が政権交代を果たし、それ以外の域内の多くの国では、左派政権が誕生しました。これは歪んだ利益調整構造を内包する伝統政党の刷新と、それまでの行き過ぎた新自由主義経済政策を是正しようという動きであったと言えます。

5.大学最終学年でのやや消極的な決断

 さて、私がメキシコ留学から帰国した頃というのは、日本では「聖域なき構造改革」が進められている時期で、大学生の就職氷河期でもありました。ただ漠然と「国際的な仕事を」と思っていた高校生の頃よりかは幾分ましでしたが、厳しい就職戦線に勇気を持って飛び込んでいく程の明確なビジョンもなく、心にはメキシコでの様々な思い出があり、これを自分の将来の仕事につなげていくにはと考えた結果、大学院に進むことにしたのでした。こう書きながら、日頃接する大学生の皆さんの就職に対する考え方が、当時の自分よりずっと現実的でしっかりしていることに改めて頭が下がる思いになりました。

舟木 律子(ふなき・りつこ)/中央大学商学部准教授
専門分野 比較政治学、ラテンアメリカ地域研究
愛知県出身。1978年生まれ。2002年愛知県立大学外国語学部卒業。
2004年神戸大学国際協力研究科国際協力政策専攻博士課程前期修了。
2004-2006年青年海外協力隊参加(ボリビア、職種:村落開発、市役所配属)。
2010年神戸大学国際協力研究科国際協力政策専攻博士課程後期修了。政治学博士(神戸大学)
中央大学商学部助教を経て2012年より現職。

 現在の研究課題は、南米初の先住民系大統領となったモラレス政権下でのボリビア政治の動態(政党システムの変容、先住民自治の制度化過程)、および南米で最も中央集権的な国チリにおける政治的分権化過程などである。
 また、主要論文に、「先住民自治の制度化における先住民の選択――混合調査法によるボリビア・アイマラ系自治体の分析――」(『アジア経済』54巻第2号、2013年)、「ボリビアにおける「下から」の国民投票―2006年県自治国民投票の規定要因―」(『「ポスト新自由主義期」ラテンアメリカにおける政治参加』IDE-JETRO アジア経済研究所、2014年)などがある。