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藤川 忠宏さん【略歴

一身にして二生を経る

藤川 忠宏さん/弁護士、T&Tパートナーズ法律事務所

1 新聞記者36年 弁護士5年

 私は、60歳で新聞社を定年退職した後、中央大学法科大学院で学び、3回目で司法試験にやっと合格し弁護士になりました。職歴としては、新聞記者36年、弁護士5年ということになります。

 福沢諭吉は、主著「文明論之概略」の中で、旧幕時代に儒学教育を受けて育ち、明治初期に文明開化の思想的指導者となった自らの立ち位置について、「恰(あたか)も一身にして二生を経るが如く一人にして両身あるが如し」と述べています。この言葉に、日本古来の文明と西洋文明とを比較研究するうえでこれほど便利な地位はない、今の一世を過ぎればこのような好機は二度とないであろう、という福沢先生の意気込みが感じられます。

 福沢先生ほどではありませんが、私も「一身にして二生を経る」思いを噛みしめています。そこで、私が新聞記者としてどのような体験をしたか、それが弁護士としての活動にどのように反映しているか、をお話してみたいと思います。

2 波瀾万丈の新聞記者時代

産業構造の激変を目の当たりに

 私は、昭和43年4月日本経済新聞社に入社し、電力、石油、石炭、ガス、原子力といったエネルギー関連の企業を取材することから新聞記者の第一歩を踏み出しました。1年後に配属替えになり、スーパーの台頭で激動が続く流通業界の担当になりました。

 日本経済が年率8%を超える高度成長を続けていた時代です。イノベーション(技術革新)によって産業構造が激変するのを目の当たりしました。エネルギー革命で次々と閉山に追い込まれる国内の炭鉱、流通革命の荒波にのまれる卸売業者、競争力を失えば退場せざるを得ない市場経済の冷徹なメカニズムを痛感しました。

転機は公害取材

 新聞記者3年目の春、高松支局に転勤になりました。波静かな内海にいくつもの島が浮かぶ瀬戸内の光景は、見飽きぬものがありました。ところが、瀬戸内海沿岸の自治体は、白砂青松の浜辺を埋め立て、工業用地を造成し企業誘致を図る政策に狂奔していました。その結果、景観が破壊されるだけでなく、深刻な海洋汚染が発生しました。

「一度現場を見ませんか。」取材で知り合った香川県漁連の参事に誘われて行ったのは、ハマチの養殖場でした。何万尾ものハマチが白い腹を見せ浮いていました。赤潮と呼ばれる汚染海水が香川県の有力産業であった養殖漁業に深刻な打撃を与えていました。

 工場誘致のための埋め立てが瀬戸内海沿岸の住民の事業と暮らしにどれほど被害を与えているかをルポした「よみがえれ青い海」という本を、仲間の記者と一緒に書きました。経済的な豊かさや生活の快適さを求める欲望にどこかで歯止めを掛けなければいけない、との思いを強くしました。経済記者から社会部記者へ転身したきっかけは、公害問題の取材です。

事件に追われた司法記者

 社会部に戻って担当したのが裁判所、法務省・検察庁、弁護士会を主な取材対象とする司法の分野でした。私は、昭和49年3月から52年2月まで3年間司法記者を勤めましたが、重大事件が多発し、重要な判決も相次ぎました。そのため、司法の取材にのめり込み、足が抜けないようになり、ついにはBAR(法廷)の外側から内側に身を転ずることになりました。

統制経済の残滓

 司法を担当して最初にぶつかった事件が、石油やみカルテル事件です。産業界のカルテル体質に初めて独占禁止法のメスが入り、行政指導の功罪が問われた事件でした。事件の背景には、第4次中東戦争をきっかけにペルシャ湾岸6か国が原油の輸出制限と価格の大幅引き上げに踏み切り、中東原油に依存していた日本の経済と国民生活が甚大な打撃を受けたこと(当時「石油ショック」という言葉が使われました)があります。

 検察の描いた図式は、石油ショックに便乗して、石油業界が業界ぐるみで石油製品の供給を絞り値上げが通りやすい市場環境を作り出したうえ(生産調整事件)、値上げを談合した(価格協定事件)というものです。

 私は、振り出しがエネルギー記者でしたので、石油業界には土地勘がありました。その知識が検察の捜査を取材するうえで役立ちました。

 当時の石油業法では、通産大臣が毎年度わが国全体の石油製品の生産数量を石油供給計画として示し、石油精製各社はこの計画に従って自社の生産数量を決め生産計画を大臣に提出するという、社会主義国家顔負けの経済統制が行われていました。

 問題は、国が供給計画で生産数量の大枠を決めておきながら、その配分は、各社の自由な判断に任されていたことです。そこで、通産省は、行政指導により、各社の生産数量の合計が供給計画内に収まるように、業界団体である石油連盟に各社間の生産調整を行わせていました。石油連盟としては、石油行政の下請け業務のつもりで各社に生産量を割り当てていました。この仕組みは、石油業界の内情を知っている記者なら誰でも知っていましたから、これが罪になるのか、疑問に思えました。

 果たして、判決(東京高判昭和55年9月26日)は、石油連盟とその会長及び需給委員長に対し、違法性を意識しなかったことに相当な理由があると述べて故意を否定し、無罪を言い渡しました。日本経済全体に戦時中の統制経済の残滓が色濃く残っていた時代の事件です。

コンプライアンスは身を守る

 一方、価格協定事件では、石油元売り12社と営業担当役員14人に対し、有罪判決が言い渡されました(東京高判昭和55年9月26日、生産調整事件と同日言い渡し)。

 この判決を聞いて、私は、意外な事実に気がつきました。自社のブランドで石油製品を販売している元売り会社は、14社ありました。とすると、2社が罪を免れたことになります。この2社は、起訴もされませんでした。

 取材してみると、面白い事実が分かりました。2社は、いずれも米国系の外資系企業です。摘発された価格協定の話し合いは、石油連盟の営業委員会を舞台に行われました。独占禁止法違反にならない一般的な情報交換の場には、2社の営業担当役員も参加していました。これから、値上げ幅を決めるという段になると、2社の役員は「法務部から止められているから」と言って退席しました。残った12社の役員は「外資系は頭が固い」と苦笑いしながら話し合いを続け、刑事責任を問われました。当時私は、コンプライアンス(法令遵守)という言葉さえ知りませんでしたが、法令を守ることが我が身と会社を守ることにつながるという実例を身近に見ることができました。

封印されかけた天皇暗殺未遂事件

 翌年の昭和50年5月連続企業爆破事件の犯人グループが逮捕されました。東アジア反日武装戦線と名乗るこのグループは、東アジアの労働者・人民と連帯して経済侵略を進める日本企業に対し、爆弾闘争を展開する、という独特の理論に基づいて爆弾テロを繰り返しました。三菱重工事件では、8人が死亡し、165人が重軽傷を負いました。

 この事件の捜査で、検察官は、ある事件を封印しようとしました。犯人グループが最初に企てたのは、昭和天皇をお召し列車ごと爆破するという計画でした。ところが、お召し列車が通過する荒川鉄橋に爆弾を仕掛けようとしたところ、尾行されているような気がして中止しました。

 お召し列車爆破計画は、捜査の早い段階から判明していました。ところが、検察官がその事実について厳しい箝口令を敷いて上司にも報告せず握ってしまいました。後でその理由を尋ねたら、「天皇を暗殺の対象とするという考が広まるのを防ぐためだ」という答えが返ってきました。

 一審判決(東京地判昭和54年11月12日)は、被告人らが天皇暗殺を計画した動機として、「天皇は侵略戦争の最高責任者であるのに、従来の革命勢力はこれに対し拱手していたことに不満を持った」と指摘しています。お召し列車爆破計画が公になることによって、天皇暗殺のタブーが破られることを検察官は危惧したのでしょう。ある新聞がお召し列車爆破事件をスクープして、犯人グループは。殺人予備罪で追起訴されました。

時流に乗ることを戒めた検察首脳

 司法記者3年目の私を待ち受けていたのは、戦後最大の疑獄事件といわれるロッキード事件でした。田中角栄元首相が逮捕された日、沸きかえるような興奮が日本列島を包みました。政界の最高実力者であっても法を犯せば逮捕されるという勧善懲悪のドラマに人々は酔いしれ、検察庁には無名の市民から激励の薦被りの清酒が運び込まれるという騒ぎでした。

 その夜、夜回り取材で自宅を訪ねた検察首脳は、沈痛な表情を浮かべていました。「ひとたびは、この国の宰相と仰いだ人物を逮捕しなければならない痛みと悲しみを分かって欲しい」。検察首脳は、静かに訴えました。

 国民の喝采を浴びて捜査権限を行使することに、当時の検察幹部は、強い自制心と警戒心を持っていました。国策捜査といわれた破綻金融機関経営者の責任追及あたりから、狙いを定めて強引に捜査を進める検察の驕りが目に付くようになりました。検察不祥事が相次いだ際、かつての謙抑的な精神は、どこに行ったのか、と訝りました。

「最強の捜査機関」と持ち上げたメディアの責任は小さくありません。しかし、ロッキード事件の栄光がその後の検察を縛ってきたのは、確かです。検察の威信が頂点に達したロッキード事件の最中でも、時流に乗ることを戒めた検察首脳がいたことを忘れることはできません。

3 新聞記者と弁護士との狭間で

党派的言論への戸惑い

 これまで述べたように、私は、36年間新聞記者をしてきました。取材・報道活動を通じて培われた思考方法や判断基準が骨の髄までしみ込んでいます。それと弁護士業務との間で「一身にして二生を経る」思いをすることがあります。

 弁護士になって、まず違和感を覚えたのは、一方の利益のみを主張する党派的言論です。当事者主義の訴訟構造を考えると、当然のことですが、対立する側からはモノがどのように見えるか多角的に判断し、一方に偏らない多様な情報を提供する新聞記者の習性から党派的言論に戸惑いを覚えました。

 メディアの持つ情報発信力と世論形成力を考えると、偏った一方的な情報を大量に流し続けることの弊害は、国民を戦争に駆り立てた戦前の新聞報道から明らかです。しかし、いま私が訴えかける相手は、不特定多数の読者ではなく1人あるいは3人の裁判官です。対立利益は相手方が主張すればいいと割り切ることにしました。

目の前の正義実現

 もう一つわだかまりを感じたのは、バランス感覚の問題です。バランス感覚は、新聞記者の重要な資質です。「この原稿は、バランスが悪い」という批判をすることがありますが、その記事の内容が個の利益と全体の利益との適正な均衡に目配りがなされていない場合です。とりわけ、私が書いてきた社説では、対立利益の均衡ある解決策を提示することが求められます。

 依頼者の相談の中には、いささかバランスを欠いたと思われるような主張が見受けられます。新聞記者の目から見ると、その主張が通れば、システム全体が成り立たなくなるので同調できないという結論になります。

 しかし、当事者は、その主張を実現することが正義の実現であると思っています。そこで、バランス論は棚上げして、依頼者になるべく寄り添う主張をすることに努めています。それでも頭の片隅に残っているバランス感覚との間でこなれの悪い思いをしています。

藤川 忠宏(ふじかわ・ただひろ)さん
弁護士、T&Tパートナーズ法律事務所
千葉県出身。1944年生まれ。
1968年慶應義塾大学経済学部卒
同 年日本経済新聞入社、エネルギー、流通担当記者、高松支局員、社会部、西部報道部次長、社会部次長、長野支局長を経て論説委員
2004年日本経済新聞社定年退職
2008年中央大学法科大学院修了
2011年弁護士登録、外立総合法律事務所、東京パブリック法律事務所を経てT&Tパートナーズ法律事務所所属
主な著書に「よみがえれ青い海」(共著、日本経済新聞社)、「生殖革命と法」(日本経済評論社)「司法改革の軌跡と展望」(共著、商事法務)などがある。