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小田 悠生

小田 悠生【略歴

教養講座

「移民の国」アメリカとエリス島国定史跡50周年

小田 悠生/中央大学商学部助教
専門分野 アメリカ現代史、アメリカ地域研究

はじめに

 ニューヨークの名所と言えば、多くの人が「自由の女神」を思い浮かべるのではないだろうか。ただし自由の女神国定史跡(ナショナルモニュメント)が、自由の女神とリバティー島だけではなく1kmほど離れたエリス島をふくめた二つの島によって構成されていることには、日本では馴染みが薄いかもしれない。2015年はエリス島が自由の女神国定史跡に加えられた1965年から50周年にあたる。そこで、アメリカは「移民の国」であるというイメージの形成とエリス島の国定史跡指定との関わりを紹介したい。

大規模移民の時代と移民制限

 現在、移民博物館が開設されているエリス島は、1892年にアメリカ合衆国政府の入国審査施設が建設された地である。連邦国家であるアメリカでは、19世紀後半まで移民行政における州政府と連邦政府の権限の関係は明確ではなかった。連邦政府への一元化が進んだ1890年代以降最初の、本格的な連邦施設として最も重要な港であるニューヨーク湾に建設されたのがエリス島入国審査場である。大西洋を渡った客船では、まず一等・二等船室の乗客の審査が船上でおこなわれ優先的にマンハッタンへ上陸した。その後に三等船室以下の乗客はエリス島で下船し、審査を待たなければならなかった。島には身体検査場、質問場や病院が置かれ、追加検査や病気の場合には留めおかれ、入国が拒否された場合にはヨーロッパへ送り返されるという緊張に満ちた場所であった。

 こうした施設が設けられた背景にあったのは、移民の増加である。19世紀末から20世紀初頭はヨーロッパから合衆国への移民の最盛期であり、1890年から1899年には358万人、1900年から1909年までに757万人、1910年から1919年までに500万人を数えた。その多数はオーストリア=ハンガリー、ロシア、イタリアといった東欧や南欧からの出身であったが、反移民感情の高まりとともに、20世紀初頭には東欧や南欧からの移民を「新移民」、19世紀半ば以前のイギリスやドイツからの移民を「旧移民」と区別する言葉がつくられ、前者を標的とした様々な移民制限案が議論されるようになった。

 そして第一次世界大戦後、合衆国議会は建国以来はじめてヨーロッパからの移民の数を制限することを決定し、大戦前には年間100万人であった移民を約15万人へ削減するための法律を可決した。これはアメリカ史上の大転換点であった。新たな制度は出身国の序列にもとづいて異なる受け入れ上限を設け、アメリカ国民の父祖の地であると位置づけられたイギリスには実際の需要を大きく上回るビザを確保する一方で、最少では年間100人の移住しか認めないという差別的なものであった。そして移民の急激な減少によってエリス島の役割も縮小していった。第二次大戦時にはもっぱら沿岸警備隊の訓練施設として用いられた後、1954年に閉鎖されたのである。

移民の国アメリカ論

エリス島を「自由の女神国定史跡」に組み入れることをリンドン・ジョンソン大統領が発表したのは1965年のことである。1886年に建立された自由の女神は、米仏友好、共和主義の象徴として1924年に国定史跡に指定されていた。そして1930年代以降、自由の女神像は次第に移民歓迎のシンボルとして語られるようになる。[1]しかし、アメリカ合衆国の歴史のなかでエリス島が記憶・保存されるべき重要な地であり、国定史跡としてふさわしいという考えは施設閉鎖当初から有力であったわけではない。国定史跡を管理する国立公園局にとってエリス島は不要となった施設群にすぎず、1962年までに政府は四度の競売を催し宅地開発を計画する民間企業に島を売却しようとしていた。

 エリス島保存の背景には、第二次世界大戦を経て、東欧や南欧から渡米した移民や第二世代・第三世代の統合が進むなか、アメリカは「移民の国」であるという主張が力を得つつあったことと深く関わっている。アメリカの歴史学界や歴史学科において移民の研究が正統な研究対象として認められるようになるのは戦後である。初期の研究はヨーロッパからの移民を対象としたもので、研究者の多くは19世紀末や20世紀初頭に渡米した移民の子や孫であった。その学問的営為は、「新移民」として差別や制限の対象とされた東欧や南欧からの移民をアメリカの歴史のなかに紡ぎこもうとする営みでもあった。

 そのような文脈で「移民の国」アメリカを象徴する場所として、新たな意味を与えられていったのがエリス島であった。たとえば世紀転換期の移民についての著書『根こそぎにされた人(Uprooted)』(1952年)でピューリツアー賞を受賞したハーバード大の歴史学者オスカー・ハンドリンは、エリス島は19世紀末から20世紀初頭に渡米した移民が最初にアメリカの地を踏んだ場所であるとして、1620年にピルグリムズが上陸したマサチューセッツ州プリマスになぞらえ、アメリカ史のなかで記憶されるべき場所として保存を求めた。ジョンソン大統領は史跡指定のスピーチのなかで、1893年にロシアから移住し、第二次世界大戦中の愛国歌「ゴッド・ブレス・アメリカ」などで知られる作曲家アーヴィング・バーリンをはじめとした著名人の名を列挙しながら、エリス島を通った1600万人の移民がアメリカ合衆国を作り上げたと称えた。同年に議会が出身国の序列化による移民制限方法を改定したこととあわせ、それは東欧や南欧からの移民やその子孫へ向けてのシンボリックな行為だったのである。

移民博物館の開館

 国定史跡に指定されたとはいえ、島が一般公開されるまでにはさらに10年が経過した。1966年には建築家フィリップ・ジョンソンによる壮大な公園計画が発表されたものの、ベトナム戦争の戦費増大によって予算が逼迫したため計画が実現することはなかった。それどころか既存の建物の維持すら危ぶまれた。訪れる者もないままに荒れ果てることを懸念した市民団体による募金運動によって、1976年には最低限の補修後にフェリーで渡れるようになったが、訪問客は朽ちる床に気をつけながら歩かねばならないというありさまだった。

 エリス島がふたたび脚光をあびるのは1980年代、ロナルド・レーガン政権下のことである。1982年にレーガンは、自由の女神建立100周年となる1986年までにリバティー島を整備し、コロンブスによる新大陸到達500周年となる1992年までにエリス島を整備するという計画を発表した。このような記念事業の一環となることで、エリス島はあらためて「移民の国」のシンボルとされ、1990年に旧入国審査棟の一部が移民博物館として開館されるに至る。

現在のエリス島

 現在、自由の女神への訪問客は年間400万人、エリス島への訪問客は300万人を超え一大観光地となっている。マンハッタン発のフェリーはリバティー島へ立ち寄ったのちにエリス島へ向かう。フェリーを下船した訪問客が博物館で最初に目にするのは、Peopling of Americaと題された植民地期からエリス島閉鎖の1954年までの移民に関する常設展示 (2011年公開)である。エリス島には展示のほかにも、かつて大西洋を渡った祖先をもつ訪問者が自身の家族の歴史とエリス島の歴史を結びつける仕組みが設けられている。アメリカではルーツ探しの人気が高く、家族の歴史の調査方法に関する市民講座が各地の公文書館で開催されている。なかでもエリス島のデータベースは膨大なもので、船員などの短期上陸者を含めエリス島で入国審査を受けた5100万人分の記録がデジタル化されている。そして利用者は姓名、移住年、出身地など様々な手掛かりをウェブサイトに入力していくことで、自分の祖先の記録だけでなく大西洋を渡った船の写真まで閲覧することができるのである。またマンハッタンを遠望できる博物館前には、一定額を払うことで家族の名前を刻印できる碑が建てられている。現在は70万人の名が刻まれ、その数は増え続けている。このように、自らの家族とエリス島とのつながりを確認する様々な仕掛けが施されているのである。

 2015年はエリス島の国定史跡指定ならびに移民法の改定から50年にあたることから様々な記念行事が予定されている。博物館では、これまでの展示を拡張し1954年以降現在までの移民に関する新たな常設展が公開される予定である。20世紀後半以降の移民の多数はラテンアメリカやアジアの出身であり、新たな展示のあり方、そこに綴られる歴史をめぐって活発な議論がわき起こるであろう。ニューヨークを訪れる機会には、ぜひ足を運んでみてはいかがだろうか。

  1. ^ジョン・ハイアム著、斎藤眞・阿部斎・古矢旬訳『自由の女神のもとへ』(平凡社、1994年), 第三章「自由の女神像の変容」
小田 悠生(おだ・ゆうき)/中央大学商学部助教
専門分野 アメリカ現代史、アメリカ地域研究
神奈川県出身。1980年生まれ。2003年東京大学教養学部卒業。
2005年東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。
2014年コロンビア大学博士課程修了。Ph.D.(歴史学)
2014年より現職。
現在は、アメリカにおける移民の権利を人権規範の観点から研究している。主要著書(共著)にGenerations: Rethinking Age and Citizenship (Detroit: Wayne State University Press, 2015)がある。