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松野 良一

松野 良一【略歴

戦前のジャーナリスト養成学校「新聞学院」-山根真治郎が目指したもの

松野 良一/中央大学総合政策学部教授
専門分野 メディア論、ジャーナリズム論

戦前にジャーナリスト養成機関を設立した中大OB

(写真1:復刻された「新聞学院」の『学報』(不二出版)

 戦前の日本を代表するジャーナリストとしてよく名前があがるのが、長谷川如是閑、杉村楚人冠。2人とも中大OBである。しかし、もう1人、山根真治郎という中大OBを忘れてはならない。彼は、戦前日本で、初めて本格的なジャーナリスト養成機関「新聞学院」を設立した人物であるからだ。この3人は、戦前日本のジャーナリズムの基礎を築いた人物と言ってもよい。このほど、「新聞学院」の研究紀要『学報』(全33巻)の復刻版が不二出版から刊行された。筆者は、その解説を担当した。

山根真治郎とは?

(写真2:「新聞学院」を設立した山根真治郎)=山根康治郎氏提供

 この「新聞学院」を設立したのは、国民新聞社編集局長(後に副社長)、日本放送協会理事、日本新聞協会理事、中部日本新聞編集顧問などを務めた山根真冶郎(1884年-1952年、1907年中大法科卒)である。満州事変が起きた1931年に、徳富蘇峰や新聞社、通信社の幹部が賛成人となり神田三崎町(後に銀座)で設立され、翌年の1932年4月に開講されている。34年には、日本新聞協会附属となり、同協会が資金援助することになった。そして、日本が戦争へ突入していく過程の中で約11年間存続したものの、戦況が悪化した1942年に閉校した。少数精鋭の教育で、専門的な記者と経営者養成をおこなったこの「新聞学院」は、332人の卒業生を出しているが、うち7割が新聞社、通信社、放送局などのマスコミ業界で活躍するという実績を残している。さらに、当時植民地だった朝鮮半島、台湾からの留学生たちも、戦後に母国へ帰り、マスコミ業界の幹部となった。

設立の趣旨

(写真3:娘婿の山根康治郎氏(2010年筆者撮影、当時96歳)

 設立発起人並びに賛成人を見ると、当時のマスコミ界の幹部の名前が並んでいる。発起人は、山根真治郎。賛成人には徳富蘇峰、緒方竹虎(東京朝日新聞社編集局長)、光永星郎(日本電報通信社社長)、正力松太郎(読売新聞社社長)、瀬木博尚(博報堂社長)、杉村楚人冠(東京朝日新聞社顧問)など27人が名前を連ねている。当時の日本のマスコミ界がこぞって、この「新聞学院」でのジャーナリスト養成に賛同していたことがわかる。

 設立の趣旨には、こう書いてある(現代語表記に変換=筆者)。

「新聞生まれて六十年、企業今や二千を超え、その職能と権威とは正に現代の一大偉観である。新聞の研究が如何に重大であり、新聞従業員の養成が如何に有意義であるかは云うまでもなかろう、これ本校開設の所以である。」

 なぜマスコミ界の幹部が、山根真治郎氏の目指した組織的なジャーナリスト育成に賛同し、「新聞学院」設立を支えたのであろうか。山根真治郎は「記者は生(うま)る、しかも記者は造るべし」という言葉を残している。つまり、記者には才能が必要であるが、その才能に依存しすぎていると誤報をとばしてしまう危険性がある。才能だけでなく訓練と経験を積み重ねる事で、十分に優れた記者となりえるとしている。

 山根はまた、「記者造るべし」というポリシーを世界で最初に具現化したのが、米国のミズーリ大学の新聞学部であるとし、創立者であるウォルター・ウィリアム博士に対しても敬意を示している。「新聞学院」は、記者養成中心のコロンビア大学ではなく、記者と経営者を養成するミズーリ大学をモデルにしたとも言われている。

 では、なぜ山根は1931年に「新聞学院」を設立したのだろうか。国民新聞社の副社長まで務めた山根は1930年に退社している。娘婿の山根康治郎氏(中大OB)によれば、当初、三井財閥の有力者であった有賀長文から費用を負担するから洋行しないかと誘いを受けたという。山根は、「これからはジャーナリズムの時代が来るので、記者の養成にその金を使いたい」と申し出た。これを有賀が了承して、「新聞学院」開講の資金にすることにしたという。その資金は、当時の金で20万円だったと康治郎氏は証言している。

「新聞学院」のカリキュラム

(写真4:「新聞学院」が発行していた『学報』(第32巻)

 学校には必ず学則というものがある。この「新聞学院」にも学則があった。その第1条には、目的が記されている。「本校は新聞通信社の記者経営者(後に、従業員)たるに必要なる学理と実際とを教授し併せて新聞に関する調査研究をなすを目的とす」。

 同学院は、編集学科と経営学科の2学科で構成された。これは、ミズーリ大学をモデルにしたものと思われる。修業年限は1年で、授業は夜間に行われた。33科目が設定され、各学科に必須科目が設定されていた。編集学科は、新聞概論、言論史、新聞紙法、編集総論、経営総論、整理学、記事学、記事作習、写真、工務学、事業及副業論などの21科目。一方、経営学科は、新聞概論、新聞紙法、編集総論、経営総論、事業及副業論、整理学、販売学、広告学、文案及図案法、工務学、新聞経理学などの21科目であった。

 選択科目の中に「見学及科外講義」というものが開講されている。見学では、各新聞社や通信社、日本放送協会のほか、取材先である首相官邸、警視庁、裁判所、刑務所、日銀などのほかに、歌舞伎座、日活多摩川撮影所、後楽園スタジアムなどの文化施設も含まれていた。また、科外講義では、日中戦争の現場で取材してきた従軍記者の報告、満州国やリットン調査団の報告、放送事業と報道機関、アメリカンジャーナリズムのアウトライン、ヒンデンブルグ号爆発事件と記者の活動など、極めて現実的で実践的な内容が講義されていた。

実際の講義内容

 科目だけを見ると、現実に即したジャーナリストの実践的な育成が主であるように見えるが、実際に行われていた講義は、憲兵が聞いたら逮捕されるような内容も含まれていたという。実際に講義を聴いた康治郎氏の話では、戦争の悲惨な状況や日本軍がやった悪い事など記事に書けない事なども、報告されていたという。さらに、従軍から戻った記者たちは、大本営発表とは全く違う戦況の事実を明らかにし、そして、結局「戦争はやるべきじゃない」と結論づけていたという。「講義の内容には、検閲はなかった」とも語っている。表面的には、新聞紙法や戦時体制の国策に合わせていたが、実際の講義内容は意外とリベラルだったようだ。

「新聞学院」の入学資格と講師

(写真5:最終巻となった「学報」第33巻。)

 さて、「新聞学院」の入学資格は、本科生は「専門学校令による学校又は之と同等以上の学校を卒業したるもの若しくは本校に於て聴講の資格ありと認めたるものに限る」とし、制約をゆるくして優秀な人材を集めようとした。これにより当時植民地だった朝鮮半島や台湾などからの学生を受け入れることも可能だったという。男女平等、植民地出身者も平等に入学できたことが、この「新聞学院」のリベラルさと懐の深さを示している。

 講師は、新聞社、通信社、広告代理店、企業宣伝部、警視庁などの幹部が担当した。学生は、当初は大学生が多かったが、最終期には半数近くがすでに新聞社に勤務している人間だったという。戦時下でもあり新聞社での育成が間に合わず、「新聞学院」がジャーナリスト育成の役目を負っていた。

(写真6:写真説明には、「ソロモン海戦戦果発表の時の海軍省内」とある。発表しているのは、海軍省報道部長。)

 1年目の志願者は280名で、入学試験により41名に絞られた。すでに新聞社などで働いている研究科生を入れた計64名が一期生として「新聞学院」で学んだ。そして、1932年から1942年までの間に、合計で332名の卒業生を出している。10周年を迎えた段階の記録では、卒業生が265名(死亡9名含む)のうちマスコミ業界の在職者186名と報告されている。

突然の閉校

1942年10月の「学報」第33巻に突然、「山根学院長辞任」の告知記事が掲載される。「学院長山根真治郎氏は今回名古屋市に於いて創刊された、中部日本新聞社(新愛知、名古屋両紙合併)に入り在京のまま編集を援助することとなったので8月25日を以って辞任された」。「いまこの人を学院より失ふは誠に名残惜しい、尚後任学院長は追って決定の筈である」。

 しかし、後任の学院長が決まることはなかった。後任が決まらないまま、「新聞学院」は11年の歴史に幕を下したのである。

 なぜ、唐突に閉校になったのだろうか。理由はいくつか考えられる。1つ目は、戦時下での一県一紙体制へと新聞統合が進み新聞社も多忙となり、講師を集められる状況ではなくなった可能性である。実際に、山根学院長も合併によってできた中部日本新聞の編集に関わることになっている。2つ目は、新聞が完全な統制下に置かれ、「もう学校を開いていても意味がなかった」(康冶郎氏)という状況であったこと。3つ目は、「新聞学院」内の講義では、憲兵に知らされれば大変なことになるような、リベラルな講義や発言が行われていたこともあり、未然に不測の事態を防ぐために閉校の措置がとられた可能性である。

 いずれにしろ、泥沼化した日中戦争の継続、太平洋戦争の開始と戦場の拡大、さらには大政翼賛体制による報道の完全統制の中で、「新聞学院」はその時代の流れに抗うことができずに、閉校に追い込まれたと考えられる。

松野 良一(まつの・りょういち)/中央大学総合政策学部教授
専門分野 メディア論、ジャーナリズム論
1956年生まれ。九州大学卒業。筑波大学大学院修士課程修了。中央大学大学院博士後期課程修了、博士(総合政策)。朝日新聞社会部記者、TBSプロデューサーを経て、現職。1996年-97年、ハーバード大学客員研究員(フルブライト留学)。著書に、『市民メディア論』(ナカニシヤ出版)、編著に、『映像制作で人間力を育てる』(田研出版)、訳書に『パブリック・アクセス・テレビ-米国の電子演説台』(中央大学出版部)などがある。