パラスポーツへの関心が高まる中、それぞれの競技で世界の舞台を目指し、挑戦を続けるアスリートたちがいます。MS&ADインシュアランス グループの4人の選手に、これまでの挑戦と、未来へ向けた思いを聞きました。
競技人生の始まりは”ダイエット”
写真:アフロスポーツ
――道下選手が競技を始めたきっかけについて教えてください。
小学4年生のときに角膜の病気を患い、中学2年生で右目の視力を失いました。その後、左目の視力も低下し、26歳で盲学校に入学しました。マラソンを始めたきっかけはダイエットです。視力を失ったことによるストレスや運動不足の影響で体重が増えてしまい、「何とかしなければ」と思って走り始めました。当時は体脂肪率が現在より10%以上多く、健康を取り戻したいという思いが強くありました。
そうして始めたランニングでしたが、走ることそのものに魅力を感じるようになり、中距離の国内レースにも出場するようになりました。競技を始めたころ、盲学校の50代の同級生が自分よりも早いタイムで走っていることを知り、「自分は20代なのに負けている」という悔しさが湧き上がりました。自分には負けず嫌いな一面があったのかもしれません。その悔しさが、練習を重ねる原動力になりました。
故郷である山口県下関市でフルマラソン大会が開催されると聞き、「地元で開催される大会に挑戦してみたい」と思ったんです。その大会が私にとって最初のフルマラソンになりました。さらに「42.195kmという長距離の方が向いているのではないか」という周囲からのアドバイスもあり、フルマラソンへの挑戦を続けることに。30代で本格的にマラソンへ転向し、競技として取り組むことになりました。
感動を分かち合えるパラマラソン
――パラマラソンの魅力や見どころについて教えてください。
マラソンは、準備なしではスタートラインに立つことすらできない競技です。42.195kmという距離は、その日の勢いだけで走り切れるものではありません。綿密な練習を重ね、その積み重ねを本番で発揮することが求められます。速さだけでなく、ペース配分や体調管理、精神面を含めた総合的な力が問われる競技だと思います。その中で、パラマラソンでは私の場合は伴走者とともに走ります。日々の練習で築いてきた距離感や声かけが、本番でかみ合ったときに強い達成感を覚えます。伴走者が自分の走りを心から喜んでくれることも嬉しいですし、自分が走ることで誰かが喜んでくれるということにも感動しました。
同じ大会に出場し、同じゴールを目指して走ることができるのも、この競技の特徴です。互いの努力を称え合いながら挑める環境があり、人と人とのつながりや信頼関係が結果に影響します。そうした点が、私にとっての大きな魅力です。
学びの機会くれた「ランニングの縁」
2017年にアメリカに3週間滞在し、アメリカ国務省が主催する「IVLP(International Visitor Leadership Program)」という研修に参加しました。この研修の目的は、人権に関する学びを深めることです。私たちはシアトル、ピッツバーグ、コロラドなど4都市を回り、障がい者施設や、障がいの有無に関わらず学べる学校、さらには日本でいうスポーツ庁のような機関等を訪問しました。そして障がい者支援や教育、スポーツを通じた人権のあり方について考える機会を得ました。
その研修の中で、IBMフェローであり、視覚障がい者向けWebアクセシビリティの研究開発を牽引された浅川千恵子さんにお会いすることができました。浅川さんからは「これからは障がいを言い訳にできない社会になる」という力強い言葉をいただきました。AIなどの技術が進化し、情報は誰でも手に入る時代であるからこそ、学び続ける努力が重要であると感じました。また、世界には、男女差別や障がいを理由に夢に挑戦することが困難な地域があることを知り、その格差を目の当たりにして多くの気づきを得ました。
――なぜIVLPに参加することになったのですか?
福岡市の大濠公園で同じくランニングをしていたアメリカ領事のトーマス・ホイットニーさんに声をかけていただいたことがきっかけです。ホイットニーさん自身もランナーであり、「走っていると予期しない出会いがある」ということを実感する機会にもなりました。また、ホイットニーさんは私の講演を聞いてくださっており、「研修を通してアメリカの良いところも悪いところも知ってもらい、発信力のある道下さんにぜひ伝えてほしい」とおっしゃってくださいました。この言葉は私にとってとても励みになりました。
さらに、研修中には普段伴走をしてくださっている青山由佳さん(神奈川県相模原市職員)が職場の理解を得て同行してくださり、大きな支えとなりました。通訳の方の助けを借りながら、拙い英語で挨拶をしたり、交流を深めたりしながら、アメリカの人権問題や社会の現状について多くの学びを得ることができました。この経験を通じて、自分自身の競技活動だけでなく、社会に対する理解や発信の役割についても考えを深めるきっかけとなりました。
友人の言葉で気づいた”使命”
――道下選手がいま挑戦していること、これから挑戦したいことは?
私は伴走者がいなければ走ることが難しい状況にあります。だからこそ、目が不自由でも一人で走ることができる世の中になるための製品やサービスの開発にも関わっていきたいと考えています。最近は日本全国を訪問し、スポーツイベントや交流活動に参加することも続けています。目標は47都道府県制覇です。幼少期にパラアスリートを見たことがなかった自分だからこそ、地域に足を運ぶ意味があると思っています。また、私は人と人とをつなぐことが好きなので、自分らしい方法で、多様な人々が活躍できる社会の実現に貢献していきたいです。走ることで得た経験や出会いを活かし、障がいの有無を問わず、すべての人が希望を持てる社会を目指して、これからも活動を続けていきたいと考えています。
目が不自由になったとき、友人に「あなたは障がいがあるように見えない。だからこそ、バリアを取り除くような活動をしたらいい」と言われました。その言葉は、落ち込んでいた自分にとって、自分が社会に対して果たせる役割を考えるきっかけになりました。特別に約束したわけではありませんが、約束の言葉のように自分の中に刻まれています。希望を失いかけていたときに、その先の夢につながる言葉をもらった気がしました。
「挑戦」には不安が伴いますが、知らない世界であればあるほど、自分が成長できる可能性があると思います。先入観を捨てて、新しい一歩を踏み出してほしいと思います。
視覚の特性と向き合って走る
写真:アフロスポーツ
――熊谷選手が属する「T12」というクラス、そしてご自身の見え方について教えてください。
視覚障がいのクラスはT11、T12、T13に分かれていて、番号が若いほど障がいの程度が重くなります。私が属するT12は全盲ではありませんが、著しく視力が低いクラスです。マラソンではT11とT12が同じレースで順位を競います。T11は伴走が必須ですが、T12は各自で選択できるので、私は伴走をつけずに走っています。
私は生まれつき虹彩がない「先天性無虹彩症」で、視力は0.02以下です。光の量を調整できないため、日中でも夜のような見え方になります。強い光に弱く、信号の色も判別しづらいことがあるので、人の動きを見て青信号だと判断することもあります。
アスファルト道路の凹凸が分かりにくいことがあります。慣れたコースであれば対応できますが、初めて走るコースは慎重になります。大けがにつながらないよう、可能な限り試走を行い、コースの特徴を確認してからレースに臨みます。
国内大会では転ぶことはほとんどありませんが、国際大会では十分な下見ができないことがあり、実際に海外のレースで転倒したこともあります。そのような状況では、同じT11やT12の選手の動きを見ながら判断して走ります。
屋外ではサングラスを使用しています。無虹彩症は眩しさの影響が大きいため、重要な対策の一つです。夕暮れや朝方は比較的見やすいのですが、日差しが強い時間帯はリスクが増します。光を抑え、転倒を防ぐために環境を整えながら練習しています。
同級生の誘いが開いた「世界への道」
中学2年生の時に友人から「陸上部に入ってほしい」と声をかけられたことです。当時、私は黒板の字もほぼ見えなくて、授業中に前に出て確認することもありました。周囲と同じように行動できない場面も多く、自分の中にどこかもどかしさを感じていました。
だからこそ、自信を持って取り組めるものを探していたのだと思います。いま振り返ると、自分探しをしていたのかもしれません。そのタイミングだったので「よし、やってみよう」と思いました。
――さまざまな種目の中で、なぜ長距離を選んだのですか?
自宅が小中学校から3kmほど離れていたので、小さい頃から毎日往復約6kmの道のりを通っていました。そのおかげで長い距離を歩いたり走ったりすることへの抵抗がなく、むしろ得意でした。また、短距離よりも長距離のほうが自分に合っていると感じました。長距離は一瞬の勝負ではなく、日々の積み重ねが結果につながる競技です。練習を重ねることで記録が少しずつ伸びていく、その過程が自分にはしっくりきました。
記録が少しずつ伸び、努力が数字で返ってくるようになると、走ることは単なる部活動ではなくなりました。周囲と比べるのではなく、「自分の記録と向き合う」「昨日の自分を超える」という感覚でした。
日本人初「2時間20分」の壁に挑みたい
写真:アフロスポーツ
――これまでの競技人生の中で取り組んだ、最も大きな挑戦は?
コロナ禍の時期に千葉県富津市で行った3か月間の合宿練習です。移動自粛の動きが広がる前に富津へ移動し、宿舎を確保しました。滞在中はSNSなどで自分の状況を発信することもせず、「次の国際大会に出場したい」という思いだけを持って、ひたすら競技の練習に集中していました。
その背景にあったのは、2016に開催された国際大会の代表選考レースの苦い記憶です。マラソンでトップを走っていた私は、ゴールまで残り700mほどの地点で後ろにいた選手にかわされ、必死に追いかけたものの追いつくことができず、代表の座を逃しました。あのレースの最後の局面で届かなかった差を埋めるために、私は「できることをやり切ろう」という覚悟で富津での3か月を過ごしました。
滞在中は月間平均で約1,400kmを走りました。1日にすると45kmほどです。朝、午前、午後と、2時間ずつ走る日もありました。あの練習によって、終盤まで粘る力やレース全体を通して走り切る安定感は確実に高まりました。大会の開催が不透明な状況でも、準備を止めるという選択肢はありませんでした。
まずは、アメリカで開催される次の国際大会に出場すること。そしてフルマラソンのタイムで、日本人で最初に2時間20分を切ることです。T12男子の世界最高記録は2時間19分08秒ですが、日本人ではまだ誰も2時間20分を切れていません。まずはその壁を越えたいと思っています。
私はいま39歳です。年齢を重ねると、20代の頃のようにがむしゃらに走るだけでは通用しません。練習量を増やせばその分、故障のリスクも高まります。だからこそ、量と質のバランスを考えながら、年齢に応じたトレーニングを積んでいく必要があります。走力向上につながる練習をどう組み立てるか、そこも大きな挑戦だと感じています。
――その挑戦を支えている原動力は?
家族と、会社の皆さんの応援ですね。会社の皆さんは、私の目にも見やすい緑ベースに白のロゴが入った応援グッズを使って、まるで叫ぶかのように熱い応援をしてくれます。その中を走っていると「一人ではなく、一緒に戦っているんだ」という感覚になって、「もっと前へ進むぞ」「ゴールまで走り抜こう」と思わせてくれます。
陸上競技、特にマラソンは見るだけのものではなく、一般の方とパラアスリートが同じ大会にエントリーして一緒に走ることができるスポーツです。パラアスリートはサポートが必要な場面もありますが、基本的には同じコースを走り、同じ距離を共有できます。私はぜひ多くの皆さんと一緒に走ることを楽しみたいですし、もし大会で見かけたらぜひ声をかけてくださると嬉しいです。