研究

指紋認証と警察のグローバル・ヒストリー

堀内 隆行(ほりうち たかゆき)/中央大学文学部教授
専門分野 西洋史学、イギリス帝国史、南アフリカ史

イギリス帝国史/南アフリカ史と指紋認証

 わたしは学生のころから現在まで、西洋史学専攻に所属してきた。専攻を決めたのは、欧米人が非西洋世界に対しどのような眼差しを向けてきたか、というテーマに興味を持ったためだった。だがまもなく、より具体的なことが知りたくて、ヨーロッパ外で数多くの植民地を領有したイギリス帝国の歴史に関心を抱くようになり、次第にその中でも英領南アフリカに的を絞った。

 さらに2017年、南アフリカの歴史研究者であるキース・ブレッケンリッジの『生体認証国家―グローバルな監視政治と南アフリカの近現代』を訳したことをきっかけとして、関心は指紋による身元確認(指紋認証)の問題へ移った。指紋認証は、19世紀後半の英領インドで生まれた。これは、植民地統治のさまざまな必要のためだったが、特に警察による犯罪捜査で、イギリス人の当局者が現地人の関係者の顔を見分けられなかった点は大きかった。ベンガル地方で初めて本格的に指紋を犯罪捜査に用いた警視総監のエドワード・ヘンリーについては、すでに多くの研究がある。これらの研究を踏まえて『生体認証国家』は、ヘンリーその人が南アフリカに招聘されたことにより指紋認証が当地へ伝えられ、金鉱から逃げ出すアフリカ人労働者の追跡などに使われた経緯を明らかにした。

指紋認証からグローバル警察史へ

 この『生体認証国家』の翻訳を通してわたしは、南アフリカ史における指紋認証というテーマをめぐって、ブレッケンリッジが扱わなかった問題に取り組みたいと考えるようになった。そうした関心に従い、2010年代の末に見た一次史料としては、20世紀初めの英領ケープ植民地でインド系や中国系の移民に発給された居住許可証があった。これは現在の日本で言う外国人在留カードに当たり、ケープタウンの西ケープ州公文書館で見ることができるが、そこには移民たちの指紋が押されていた。

 だが、2019年の7月にアメリカ合衆国の『フォーリン・ポリシー』誌の記事を目にしたことが契機となり、新たな興味も芽生えた。この記事は当時の香港民主化運動を背景に書かれたもので、香港警察によるデモ弾圧の起源を英領時代の1967年に求めていた。同年に香港警察は、部隊を催涙ガス噴射・群衆の特定の街路などへの追い込み・逮捕の3班に分け、各班を連動させながらデモを鎮圧する「新戦略」を採用した。新戦略について特筆すべきなのは、それが1980年代なかばにイギリスへ輸出され、炭鉱ストライキの制圧に用いられた点である。さらに、イギリスで研ぎ澄まされた新戦略はその後、香港に再輸入された。

 『フォーリン・ポリシー』誌の記事から芽生えた興味とは、グローバルな警察史への関心である。同記事は、警察をめぐる技術の国際移転を主題としていたが、先述のヘンリーを介した指紋認証の伝播も、そのような技術移転の一例と見なすことができる。ヘンリーは南アフリカからさらにイギリスへ移ってロンドン警視庁で警視総監に就き、同庁へも指紋認証を本格導入した。また技術移転とは異なるが、20世紀初めに米領フィリピンで創設された中央集権型警察がアメリカ本国のFBI(連邦捜査局)設立に影響を与えた経緯などは、制度の国際移転と言えるかもしれない。

犯罪史との出会い

 しかしそうしたことを考えているうち、2020年に入るとコロナ禍が世界を覆った。海外へ赴いての史料調査は難しくなったが、他方で研究文献を読む時間は増えた。それらの文献中の一冊が、わたしの考えをさらに進めることとなる。

 その一冊とは、南アフリカの歴史家チャールズ・ファン・オンセレンの大著『狐と蠅たち―ある奇怪な犯罪の達人の隠された生涯』である。同書の主題はポーランド出身のユダヤ人で、19〜20世紀転換期の環大西洋世界をまたに掛け売春宿の経営者、売春婦をあっせんする女衒(ぜげん)、強盗、警察のスパイなどとして暗躍したジョゼフ・リス(ジョゼフ・シルバー)の生涯だった。リスはポーランド、イギリス、アメリカ合衆国、南アフリカ、ナミビア、ドイツ、フランス、ベルギー、アルゼンチン、チリ、ブラジルを転々とした。ファン・オンセレンによればリスは、1880年代末にロンドンで娼婦たちが連続殺人の犠牲となり、未解決に終わった切り裂きジャックの事件の犯人である可能性も高いという。

 一人の犯罪者について国際的暗躍の足跡をたどった『狐と蠅たち』は、まずはグローバルな犯罪史の優れた研究成果である。だが同書は、先述の技術・制度の国際移転とは異なるものの、グローバル警察史も扱う文献と言える。リスを追い詰め、各地を転々とさせた要因としての(各地における)警察の体制整備や指紋などの科学捜査に関してもヴィヴィッドに描き出しているからである。このファン・オンセレンの大著を通してわたしは、狭義の警察史にとどまっていては抽象的にしか見えてこなかった世界が、犯罪史の文脈の中で具体的な姿を現す点を痛感させられた。

現在の研究課題

 それでは、『狐と蠅たち』のように警察に追われる者と警察の両方を視野に収めた、わたしならではのグローバル・ヒストリーはどうすれば書けるのか。そのヒントは、2021年に著した『ネルソン・マンデラ』から与えられた。マンデラは南アフリカ共産党の大幹部でもあったが、南アフリカに限らず共産党の活動家の中には20世紀、世界をまたに掛けて移動する者が多数いた。こうした活動家の足跡を警察がどのように追ったかを探れば、グローバル政治運動史・警察史の双方に資するのではないか。そういったことを考えながら現在は、南アフリカとイギリスに限定されないさまざまな地域の一次史料の調査を進めている。


参考文献

  • 堀内隆行「帝国と植民地―イギリス領インドと南アフリカの指紋認証の歴史を中心に」堀内隆行他編『探究・西洋史』(ミネルヴァ書房、2026年)
  • 同「「不審者」を統治する―20世紀南アフリカの移民管理・警察史料から」高橋宏明・宮間純一編『歴史学の見方・考え方』(勉誠社、2026年)
  • 同「警察と国家モデルのグローバル・ヒストリー」『フェネストラ』5号(2021年)
  • 同「「下からの歴史」からグローバル・ヒストリーへ―チャールズ・ファン・オンセレンの南アフリカ犯罪史研究をめぐって」『中央大学文学部紀要 史学』69号(2024年)

堀内 隆行(ほりうち たかゆき)/中央大学文学部教授
専門分野 西洋史学、イギリス帝国史、南アフリカ史

京都府出身。1976年生まれ。1999年京都大学文学部卒業。2001年京都大学大学院文学研究科修士課程修了。2007年京都大学大学院文学研究科博士後期課程研究指導認定退学。 博士(文学、京都大学)。新潟大学人文社会・教育科学系准教授、金沢大学歴史言語文化学系准教授、同教授を経て2023年より現職。

現在の研究課題は上述のとおり、20世紀の南アフリカとイギリス帝国を中心とした警察と政治運動のグローバル・ヒストリー。

また、主要著書に、『異郷のイギリス』(丸善出版、2018年)、『ネルソン・マンデラ』(岩波新書、2021年)、『探究・西洋史』(共編著、ミネルヴァ書房、2026年)、『生体認証国家』(キース・ブレッケンリッジ著、訳書、岩波書店、2017年)などがある。