私の頭の中には全宇宙がある!
〜ホワイトヘッドのコスモロジー〜
佐藤 陽祐(さとう ようすけ)/中央大学文学部准教授
専門分野 A.N.ホワイトヘッドを中心とした現代哲学、意識や心についての哲学。
生きとし生けるものたちのひしめく宇宙
私たちが生きるこの世界ではあらゆる事物が運動している。日月星辰、この宇宙のなかに運動していないものはない。マクロレベルでは静止しているように見えるものも、分子レベルではたえず物質は運動している。すべての事物が絶えることなく運動し、どんなものであれ刻々と変化を被っていく。運動していないものはこの世界にはない。したがって、宇宙におけるすべての事物が「活動している」ことを事物のもっとも具体的で本質的な特徴だとすることに異論はないだろう。ホワイトヘッドという哲学者は、この宇宙においてあらゆる事物が活動している事態を出発点としてすべてを説明していく。それゆえ、古典的な認識論のように主体と客体とをあたかももっとも具体的なものとして見なし、静止している措定物のように前提とすることはできない。というのも、もっとも具体的かつ確実に宇宙において確認されることは、どのようなスケールであれ、すべての事物が運動をしているということだからである。こうして、ホワイトヘッドの哲学においては、この世界はすべての事物が自らの主体となることを目指して活動する動的宇宙として描き出される。ホワイトヘッドが解する宇宙においては、どのようなスケールのどのような事物であれ、いわば等しく生きとし生けるものたちであり、つねに活動しているものたちがひしめきあっている。したがって、細胞も木々も山も雲も大地も、銀河も、広大な宇宙さえもこの宇宙全体が、全体と部分とが相似をなすフラクタルな構造をもって存在している。姿かたちは違えども、あらゆるものが活動し、相互に関係しながら生きる有機体として考えられるため、彼は自身の哲学を「有機体の哲学」[philosophy of organism]と称する。
「自然科学で武装したヘーゲル」が解する宇宙
イギリス出身のA.N.ホワイトヘッド(1861-1947)は、B.ラッセルとの共著『プリンキピア・マセマティカ』によって論理学の分野において著名であるが、彼の専門は数学であり、ケンブリッジ大学やロンドン大学では応用数学を教えていた。しかし、還暦を越えてからハーバード大学に招聘されるとともに、彼は超弩級の形而上学者に変貌する。彼にとっての哲学は還暦後の老人の手すさびなどでは決してなかった。ホワイトヘッドは数学、記号論理学、相対性理論、量子力学(前期量子論)といった20世紀初頭において最新鋭とされた武器を装備しており、私の師の言葉を借りていえば、彼は「二〇世紀の自然科学で武装したヘーゲル」[1]であった。そういうわけで、彼はこの宇宙のありさまをとてつもない解像度でもって描き出す。
確固とした主体すら前提とされないホワイトヘッドの宇宙においては、すべての事物が自らの主体の成立を目指して生成しては消滅するという、「活動するもの」[actual entity]として解される。私たちにとって現に存在しているように見える事物は、その都度ただ一度限りの生成の「過程」を経て生じた、唯一無二ではあるがつかの間の「実在」に過ぎない。したがって、彼の哲学においては、実在よりも生成過程のほうが優位かつ根本にある。
今、ある「活動するもの」(これをMと呼ぼう)による主体を目指す生成活動に着目すれば、他のすべての「活動するもの」もMが主体を目指して活動する生成途上においては、Mとは独立に活動している。なぜなら、先に確認したようにこの宇宙におけるすべての事物が各々の「現在」において活動をしているからである。たとえばこのMが椅子を知覚している私であるならば、私が私の現在において椅子を見ているあいだにも、椅子は椅子にとっての現在において自らを構成する原子や分子が活動している。したがって、各々の「活動するもの」における「現在」は相対的なものであり、それぞれが自らにとって固有の現在において活動しているといえる。つまり、椅子を見るという私の経験が生成しているあいだにも、椅子は椅子の現在において活動している。また、私の網膜に椅子からの反射光が届くまでの時間や、脳が視覚刺激を処理する分だけ私たちの知覚作用には時間がかかる。あるいは、他者の発する音声も空気の振動が私たちの鼓膜に伝わる時間や、その刺激を脳が処理するために要する時間の分だけ聴覚は遅れているといえる。要するに私たち人間の知覚における分解能は低く、のろまな体と遅い脳しか持っていないということである。したがって、私たちはどれほど近傍の知覚対象であってもつねにすでに原理的に過去の対象の姿しか知覚できない。同様に、「活動するもの」Mに対して現在の知覚をもたらす刺激などの何らかの影響は、Mにとっても知覚対象にとっても過去のものである。というのも、Mが知覚経験を生成しているときには、つねにすでに知覚対象も固有の現在において活動しているからである。それゆえ、Mが活動している現在において、M以外の他のすべての「活動するもの」も固有の現在において活動し、かつMは他の事物の過去のあり方としか関与できないのだから、Mとそれ以外の「活動するもの」とはそれぞれの相対的な「現在」において因果的に独立していることになる。ホワイトヘッドはこのようにMと因果的に独立している他の「活動するもの」のあり方を「共時的」(contemporary) であるという。
[1] 中村昇『ホワイトヘッドの哲学』講談社、二〇〇七年、一三頁。
人間経験のあり方
主体も客体も前提とされず、「活動するもの」Mとそれ以外の事物とは因果的に独立しているという「共時的」なあり方をするこの宇宙において、私たち人間の経験はどのように説明されるのだろうか。ホワイトヘッドによる宇宙の描像のなかで、どのようにして主体が成立し、なかでも私たち人間の経験、特に意識的な経験がいかに成立しているのかを明らかにすること、これが私の研究テーマである。もちろん、ホワイトヘッド自身による説明ないしはこれまでの先行研究などによって、彼の理論に従ったいわば「形式的な」意識経験の発生機序は一定程度明らかになってはいる。しかし、ホワイトヘッドによる説明を具体的にどのように解するべきかがやはり問題となる。たとえば、意識経験の発生においては、その基盤として「命題」[proposition]という異様な概念が登場する。この命題概念の解明にすでに私自身もかなりの時間を費やしてきた。さらにホワイトヘッドによれば、私たちの知覚経験の根底には「象徴」[symbol]の働きがあるという。現在は、この「象徴作用」に基づく知覚経験のあり方を明らかにし、E.カッシーラーやM.メルロ=ポンティなど一群の「シンボルの哲学」に分類される哲学者たちとの対話の道を開くことが私の研究課題である。
ホワイトヘッド哲学の魅力
やはりホワイトヘッドの哲学はとっつきにくく、難解に思われるだろうか。しかし実状は、ホワイトヘッドの哲学が難しいのではなく、私たち人間も含めたこの宇宙のほうがとてつもなく複雑なあり方をしているのである。ホワイトヘッドの哲学の魅力は、素粒子からブラックホールに至るまで、言葉の真の意味において宇宙全体を相手にしているところである。特に主著である『過程と実在』は、あらゆる経験的事象を解釈しうる、整合的で論理的な体系の構築を目指し、宇宙を、人間の経験を根こそぎ説明しようとする野心に満ちている。しかし、この体系は机上の空論を展開しているわけではない。ホワイトヘッドの形而上学的体系には、自然科学との整合を目指しながらも、詩や文学や宗教といったものが示唆する具体的な経験の深みをも重視する懐の深さがある。彼の哲学について考えるとき、私の頭の中には壮大な全宇宙がある。高校時代には数学や物理の試験がいつも赤点だったにもかかわらず、自然科学的探究への憧れを捨てきれず、かつこの世界や人間について「本当のこと」を知りたいと切望して哲学を学ぶ、私のようにこじらせた人間には、ホワイトヘッドは一生をかけて取り組んでもいいと思えるほどうってつけの哲学者なのである。
佐藤 陽祐(さとう ようすけ)/中央大学文学部准教授
専門分野 A.N.ホワイトヘッドを中心とした現代哲学、意識や心についての哲学。秋田県出身。1982年生まれ。中央大学大学院文学研究科 哲学専攻 博士後期課程 修了。博士(哲学)。
現在の研究課題や関心は、ホワイトヘッドの哲学における「象徴作用」とE.カッシーラーやM.メルロ=ポンティにおけるシンボル論とを比較検討することにあります。
主要著作
- 『日常の冒険 ホワイトヘッド、経験の宇宙へ』春風社、2021年。
- 春風社編集部編『わたしの学術書――博士論文書籍化をめぐって』春風社、2022年(共著)。
- 寺本剛編『リアリティの哲学』中央大学出版部、2023年(共著)。
- 『世界と人間を深く理解するための哲学の教科書』 ナツメ社、2026年(監修)。









