能楽研究所を国際・学術的研究拠点として
『英語版能楽事典』刊行へ
野上記念法政大学能楽研究所所長 山中玲子(やまなかれいこ) 教授
能研所蔵の貴重資料『能御絵鑑』を掲げる山中教授
能楽の総合研究機関として1952年に設立し、室町時代から現代に及ぶ関係資料4万点あまり(重要文化財を含む)を所蔵する野上記念法政大学能楽研究所(以下、能研)。その4代目所長として、能研を"能楽の国際・学術的研究拠点"と位置づけ直し、2013年度からは文部科学省の共同利用・共同研究拠点の認定を得て、従来型の文献研究に加え、コンピュータを用いた舞の3D合成や台詞(謡)の音響処理分析、漫画やアニメなどを用いた伝統文化教育の可能性など、能楽の新たな研究の創造にも取り組んでいるのが、山中玲子教授です。
世界のあらゆる分野の研究者・実演者へ
多角的文献として『英語版能楽事典』を編集
各種研究の中でも、山中教授が主導し能研を挙げて2013年度から進めているのが、2018年度内の完成を目指す『英語版能楽事典』の編集です。
「dictionary(辞書)かreference source(参考元)か、はたまたguide(手引き)か----どのようなものにするかは非常に悩みましたが、encyclopedia(百科事典)として研究・編集することにしました。能楽研究者はもちろん、演劇の実演者や舞台演出家など、能楽に直接関わりのない国内外の関係者にも手に取ってもらえるようなものにしたかったからです。
多角的な視点を取り入れたいと考え、研究体制も工夫しています。日本人研究者が研究したものを翻訳してもらうのではなく、外国籍研究者から依頼されたものを日本人研究者が手足となって情報提供するのでもない。初期段階から日本人研究者と外国籍研究者の双方が企画案を出し合えるように、はじめに研究分野に基づく大きな枠を決めてペアを組み、構造、歴史、演出など各ペアがテーマを設けて研究しています。どのような内容を盛り込んだらいいのか、といったことから双方が協力することで、複層的な研究が実現できつつあると感じています」
今年7月に開催した国際研究集会にて
3Dアニメーション合成のための、実演によるデータ収集の様子
2013年にサバティカルで訪れたチェコ・プラハの研究者・役者たちと。山中教授は能楽の世界への周知と研究推進のため、海外の研究者とのパートナーシップ構築にも尽力している
今年7月に開かれた同書編集のための国際研究集会で、能楽の基本構造や特徴、歴史的変遷はもちろん、ギリシア悲劇と能楽との比較や、能と宗教の関連性、現代思想における能楽、そしてジェンダーの問題などを盛り込むことが決定。山中教授は「研究集会は公開したので当日ギャラリーとして参加して下さった方たちから好評をいただきましたが、私自身もこの取り組みで自分の研究だけでは知り得ない世界を知ることができました」と言い、「編集を通じたこの集まり自体が私の喜び。異分野の融合は、新たな研究の創造につながることがあるのです」と続けます。
新たな研究創造として、山中教授には手応えを感じる経験がありました。2011年に第一弾の研究報告がなされた、能楽の3Dアニメーション合成です。
「型と呼ばれる能の舞の核となっている動作を3Dアニメーションで表す研究です。能の芸を数字やアニメーションで表すという方法自体に拒否反応を示す方もいらっしゃるし、型のアニメを繋いで再現した舞が本物の舞に遙かに及ばないのは当然で、『まだまだこれでは......』との批判もありましたが、一方で想像すらしていなかった分野の方々からの嬉しい反響もいただきました。数学の研究者から"面白いことができるかもしれない"とご連絡をいただいたので能楽の動作のデータを送ったら、能の動作の数学的分析がなされたり、本学情報科学部で音声認識などを研究されている伊藤克亘教授から民族音楽の旋律のデータベースを構築する研究を能楽でもやってみないかと提案されたり。
能楽の研究は文献学的方法にしても科学的アプローチにしても、その芸術性を壊すものではありません。約650年前に作り出され、一度も滅びることなく現代に受け継がれ、決められた形式の中でも人を感動させられるその芸術性がどうやって生まれてくるのか、今までとは違った方法で新たな光をあてて解明することには意味があると思っています」
研究員時代には、人間国宝の方々とともに舞台に上がり、小鼓を披露したことも
大学の授業では、学生の研究を深めるために能装束をまとう体験も導入。右から3番目が山中教授
人の感動を誘う能楽の根源を
台本・演出の両面から探求
「文科省の拠点の認定を受けてからは非常に忙しく、若かった頃よりももっと熱心に、もっとハードに研究に向かっています」と言う山中教授。「でもね、能楽に携わるようになったきっかけは、"和楽器の音色に惹かれて"とか"西洋演劇との違いに衝撃を受けて"とかではなく、大学で能楽サークルの見学に行ったらハンサムな先輩がいたという、とても不純な理由でした(笑)」
東京大学入学後に能楽サークルに入り、その音楽を奏でる和楽器の一つ・小鼓に魅せられて、大学2年次、人間国宝・鵜澤寿の長男で能楽囃子(はやし)方(小鼓奏者)である鵜澤速雄氏に師事。3年次に国文学を専攻して、卒業論文を書く際には当時麻布にあった能研で研究者たちと出会い、研究としての能楽の面白さも見出していきました。
「卒業論文は、愛する人を捜し求める人物(物狂)の曲(物語)である『物狂能』で、修士論文は、一つが江戸時代前期の能役者である葛野九郎兵衛(かどのくろべえ)の伝記研究、もう一つが能の中でも品位があるとされる舞の一つの『序之舞』。各論文はそれぞれ切り口は違いますが、これらの論文を含め、これまでのすべての研究に共通しているのは、形式が決められている中で演者がどのように演出を工夫し観客を感動させてきたか、ということ。私はどうも能の約束事に興味があるようです」
山中教授は演出を専門とし、特に小書を中心に分析。11月には『通小町』の論文を執筆しました。
「小書」というのはプログラムに小さい字で書かれる替演出のことです。能では決まりと異なる演技や演出の工夫も、一回限りで消えるのではなく、替演出として登録されます。
『通小町』は、小野小町と彼女に恋をして「百夜通い」をした深草少将の物語。少将と小町、二人の亡霊が僧の前に現れ、「百夜通って来れば会う」と心にもない約束をした小町のもとに、少将が身をやつして通った様子を再現して見せます。百夜目に勧められた酒を断り、仏教の習わしである不飲酒戒(ふおんじゅかい・酒を飲まない)を守ったことで、二人は救われ成仏するという結末です。
「舞台上では、小町に叶わぬ恋をした少将の絶望や暗い怒りを描く演出の工夫が重ねられてきました。暗闇の中をさまよう様子に少将の心の迷いを重ね合わせるような小書演出もあります。お酒を飲まなかったことで突然、小町とともに救われるという最終場面での急展開については、長い歴史の中で何か物語の省略や断絶があったのではないかという説もありますが、少将役の演者のちょっとした型や地謡(コーラス)の謡い方によって、確かにここで深い絶望や執心からの救済があったのだな、と感じられるような舞台もあります。逆に、最後の最後まで小町に無視されてその悔しさやもどかしさをドンと足を踏みならして表現した演者もいます。能の演出は一つではなくて、長い年月、多くの演者たちによって作り替えられてきたのです。そういう目で、いったん現在の演出を忘れ、テキストだけを読んでみると、現在とは全く違う解釈もできることがよくあります。『通小町』もそうでした。具体的にどこがどうというのは、論文の刊行前なので言えませんが(笑)、そうやってさまざまな解釈を想像するのはとても楽しい作業です。
能の演出はいろいろと変化してきましたが、決まり事のせいで『言わなくてもわかる』部分が多く、演出過剰にはなりません。だから観客も、自らの想いを投影しやすい。年齢や性別を問わずどんな方も、生きる段階のその時々でいろいろな見方ができるのが、能の一番の魅力ではないかと思います」
今年9月に和歌山城の史跡内に開館された「わかやま歴史館」を記念して、来年2月に紀州徳川家版の紀州獅子『石橋』を復曲させ、撮影・編集したその演能は3月末に同館展示室で一般公開される予定です。
- 野上記念法政大学能楽研究所所長 山中玲子(やまなかれいこ)
1957年東京都生まれ。1980年東京大学文学部国文学科卒業、1986年同大学大学院人文科学研究科国語国文学博士課程単位取得満期退学と同時に野上記念法政大学能楽研究所兼任講師に。東京大学留学生センター専任講師、同助教授などを経て、現職。2000年『能の演出 その形成と変容』(若草書房)により博士(文学)。他の著書に、『能を面白く見せる工夫 小書演出の歴史と諸相』(檜書店、共著)、『能楽囃子方五十年 亀井忠雄聞き書き』(岩波書店、共著)などがある。
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