身近ながら奥が深い「交渉」の世界
GIS(グローバル教養学部) 福岡 賢昌 准教授
福岡 賢昌准教授
多くの日本人は交渉と聞くとビジネスや外交などの場面での交渉を想像し、身構えてしまうかもしれません。しかし、交渉は私たちの日常生活にも多く見られ、密接に関わるものです。例えば、家電量販店でパソコンを購入する際の店員との値下げ交渉はもちろんのこと、子どもが親とお小遣いアップについて話し合うのも交渉です。
諸外国ではその有益性にいち早く注目し、「交渉学」という学問分野が確立されました。米国ではノースウェスタン大学とハーバード大学が交渉学研究における二大拠点であり、今日までに多くの学術的な知見が蓄積されてきました。
一方、日本はというと法科大学院や一部の関連学部を除き、科目として扱っている大学は決して多くはなく、いまだ発展途上の学問領域であるといわざるを得ません。しかし、今後の日本において、価値観の異なる人たちと交渉する機会は大幅に増えていくことでしょう。そのためにも交渉学の知識を深めていくことは、私たちの生活を豊かにするための一助になるのではないでしょうか。それでは皆さん、私と一緒に交渉学への扉を開いてみましょう。
分配型交渉と統合型交渉
ここに1個のホールケーキがあります。ケーキ好きのAさんとBさんが、そのホールケーキの分け方について話し合いました。その結果、Aさんが全体の70%、Bさんが30%でホールケーキを分け合うことになったとしましょう。
交渉学ではこのように限られたパイ(1個のホールケーキ)を奪い合う交渉を「分配型交渉」と呼びます。「分配型交渉」の多くは、交渉過程で双方が過度に競争的になり、最終的には勝者と敗者に分かれ(この場合、Aさんが勝者、Bさんが敗者)、双方の今後の関係性に対して負の影響をもたらす可能性が高まります。それでは、交渉対象として、ホールケーキの他に果物(1個)を加えてみましょう。そして、交渉過程で、BさんはAさんほどケーキが好きではなく、Aさんもその果物がBさんほど好きではないと分かったとします。この場合、おそらくBさんはホールケーキより果物を多く食べることを望むでしょう。また、果物の70%を主張し、代わりにホールケーキは30%でよいとAさんに提案するかもしれません。これはAさんにとって都合が良い提案であるため、Aさんも受け入れるはずです。
このような交渉は複数の取引材料(ホールケーキと果物)が「統合」されて(パイが拡大されて)いるので、交渉学では「統合型交渉」と呼んでいます。一般的に「統合型交渉」では双方が勝者(win-win)となり、その後の双方の関係性にも正の影響をもたらす可能性が高くなります。なお、ケーキと果物など、複数の交渉材料を「交換」することで、双方の満足度(効用)を向上させることを、交渉学では「パレート改善」、そしてこれ以上交換できない状態を「パレート最適」と呼びます。さて、「分配型交渉」と「統合型交渉」と類似する概念として、ロジャー・フィッシャー、ウィリアム・L・ユーリー、ブルース・パットンは「立場駆け引き型交渉」と「原則立脚型交渉」を示しました。彼らは「原則立脚型交渉」を理想とし、「人と問題を切り離すこと」「立場でなく利害に焦点を合わせること」「複数の選択肢を用意すること」「客観的基準を強調すること」が交渉においていかに重要であるかを例証しながら、それらの必要性を強調しています。
異文化交渉
ところで、交渉相手が日本人でなかったら、交渉はどのように行われるでしょうか。一般的にこのような交渉は「異文化交渉」と言われますが、そこでは文化人類学の知見が大いに役立ちます。例えば、へールト・H・ホフステードは「権力の格差」「個人主義対集団主義」「男性らしさ対女性らしさ」「不確実性の回避」という次元を示しました。これらは交渉における文化間の違いを理解する上で基盤となる知見です。
また、ジェズワルド・W・サラキューズは、ビジネス交渉に影響を与える10の文化的要因を示していて、その要因の一つである交渉態度(win-lose /win-win)は、異文化交渉における「統合型交渉」(win-win)の実現がいかに困難であるかを示唆しています。さらにナンシー・J・アドラーは異文化組織に焦点を当て、豊富な事例を示しながら、組織における異文化マネジメントにおいて考慮すべき点についてまとめました。ジーン・M・ブレットは統合型交渉において、同一文化内交渉と異文化交渉の相互利益を比較し、その差異を分析しています。
このように、異文化交渉においては価値観、規範、制度などの文化的差異を常に頭に入れておく必要があります。私はここ数年間、政府系機関と対日投資の促進を目的とした外資系企業誘致に関わっていますが、そこでの誘致に関わる交渉においても、文化的差異を考慮に入れた戦略立案が必要不可欠でした。
とはいえ、海外ビジネスなどを含め、自身の経験上、過度に文化的差異を意識して交渉をする必要はありません。これらの差異はあくまで、確度が高い参考程度に留めておき、交渉過程では交渉相手を一人の人間として、分析し対応すべきでしょう。また、お互いの相違点に着目するより、むしろ共通点に目を向けた方が得策です。なぜなら、そのように振る舞うことで、文化を超越した信頼関係が醸成され、その信頼関係を基盤とした情報の往来が増加し、結果として、双方が満足する交渉結果につながる可能性が高いからです。
交渉学の学問領域
交渉学のテーマは実に多岐にわたります。先に一対一の個人の交渉事例を挙げましたが、そもそも個人の交渉と複数で行う可能性が高い組織間交渉を一緒くたに扱うことはできません。組織間のパワーバランスの非対称性や複数の交渉者のそれぞれの役割などを考慮に入れる必要があり、より複雑な合意形成プロセスを経るからです。また、認知バイアスや交渉術について分析する場合は心理学の知見が必要となるでしょう。さらにリーダーによる合理的な意思決定を分析する場合はリーダーシップ論、ゲーム理論、意思決定論などによるアプローチが適切かもしれません。そして交渉戦略については、孫子の兵法などもまた役立つのではないでしょうか。
いずれにせよ、一側面からのみのアプローチでは交渉学の全体像を語ることはできません。極めて領域横断的な学問であり、多面的なアプローチを必要とするからです。
今後、日本において「交渉学」はどのように発展していくのでしょうか。できるだけ多くの知見が蓄積され、将来、多くの人たちが、それらの知見を生かして、さまざまな分野で活躍されることを願っています。
- GIS(グローバル教養学部) 福岡 賢昌
Takamasa Fukuoka
法政大学文学部英文学科卒業、同大学院経営学研究科経営学専攻(国際経営コース)修士課程修了。東京工業大学大学院社会理工学研究科価値システム専攻単位取得満期退学。博士(学術)。研究分野は経営学(国際経営戦略など)、公共経営学(地域ブランドなど)、交渉学。交渉アナリスト1級。NTT東日本(法人営業〈外資系企業担当〉、経営企画〈海外マーケティング〉)、NTTコミュニケーションズ(現地法人営業支援・管理〈欧州担当〉)、十文字学園女子大学准教授を経て2015年より現職。論文「地域ブランド構築プロセスにみる自治体による戦略的な「場」のデザイン—単数主体化と主体転換の促進への取り組み—」「国際観光振興に資する非営利組織を活用した地域ブランドの構築とLBモデル」など多数。 福岡ゼミ〈Global Strategic Management〉 https://gisfukuoka.wordpress.com/
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